さて、ハルヒが憂鬱だったというより、俺が素晴らしく憂鬱になった入学当初の頃や、やはりハルヒの溜息というより俺の溜息連続だった文化祭後の映画騒ぎも一段落ついた、冬。
期末テストも終わったし、あとはクリスマスと年末を待つだけだ。まあどうせうちの団長様が一大イベントを逃す訳はないだろう。せめて平穏に終わってくれれば良いんだが。
「よう、キョン」
この冬の寒さをもろともしない、水素のような軽さで声をかけてくる奴がいた。誰かは解っているのでいちいち振り返らない。
「よ、谷口」
一週間後がどうのこうのと言い出す谷口の言葉を聞きつつ、俺は先日のハルヒの台詞を思い出していた。
「クリスマスイブ、みんな何か予定ある?」
部室に入るなりそう口にしたハルヒは、机に鞄を投げ捨て、一等星並みの輝きを瞳に浮かべながら俺たちを見回した。
一応尋ねてはいるものの、ハルヒの事だ、Yesとでも言おうものならたちどころにブリザード、いやこの場でオーロラが見れるような事態でも起ころうというものだ。
因に俺は今古泉に付き合ってカード型のTRPG(二人でやると結構虚しい)をやっており、朝比奈さんはなんだかもう普段着となりつつあるメイド服姿で電気ストーブに手をかざし、長門はいつものようにハードカバーのSF新刊を目と指だけを動かし読んでいた。が、ハルヒが発言した事で全員視線をハルヒに集中させる。
ハルヒは鞄ともう1つ持っていた大きな袋を床に置き、俺の傍にやってくると俺を見下ろし、
「キョンはも・ち・ろ・んないわよね、一応聞いといてあげる。万が一もあるかも知れないし。古泉くんとの約束とか」
「というか、あったらどうだっていうんだ。あとなんで古泉限定…」
「そ、やっぱりないのね」
ハルヒは俺の問いかけをすぱっと無視してくれた。ついでに言うとまだ答えてもいない。まあ、どうせあっても家族とケーキを食べるくらいのもんだ。
それに、一応意見を聞いてくれるようになっただけ有り難いと思っておくべきだろう。
「古泉くんは? 今からキョンを誘おう、とか思ってない?」
「いえ、そうしたいな、と思ってはいますが…残念ながらクリスマス前後の僕の予定はぽっかりと空いていますから、どうやって過ごそうか悩んでいたところなんですよ」
実にわざとらしい口調で古泉はそういう。嘘つけ、空いてるんじゃなくて空けたんだろうが。あとこっち見ながらウィンクすんな。と俺は突っ込みたかったが、ハルヒはあっさりとそれを信じ、
「悩むことなんてないわ。それはとても幸せなことなんだから。キョンと二人で過ごしたいなら時間をあげるわ」
と言い切りやがった。ホントに幸せになりゃいいがな。あと俺の人権無視?
次にハルヒが目を向けたのは朝比奈さんだった。
「みくるちゃんはどう? 二人きりで夜更け過ぎに降る雪を見てホワイトクリスマスを満喫しよう、なんて誰かに誘われてない? ところでそんな風に誘われてもついてっちゃ駄目よ」
ハルヒのいきなりの詰問に朝比奈さんはびくりとしたが、すぐに考えるような顔つきになって、
「いえ、そ、その…今の所、何もないです。えと、夜更け過ぎ…? あ、あの、それよりお茶を…」
「とびっきり熱い奴で頼むわ。この前のハーブティーが美味しかった」
「はい!」
褒めてもらったのが嬉しかったのか、朝比奈さんの足取りは軽い。輝いた笑顔でカセットコンロにヤカンにかけた。やはり朝比奈さんはいつでも笑顔が似合うな。
満足そうに頷くハルヒは、次に長門へと目を向けた。
「有希、」
「ない」
「わよね」
お互い解りきっていたような短い会話だ。ハルヒは改めて定位置につくと、偉そうな笑みで全員を見回す。俺は我関せずを決め込んでいる節のある長門の白い顔を眺め、そんな即答しなくてもいいだろうに、と少し思った。
ハルヒは片手を振り上げると、
「ということでSOS団クリスマスパーティーの開催が全会一致で可決されました。異論や反論があるならパーティーが終わった後に文書で提出しなさい。見るだけなら見てあげるわ」
つまりは何があっても開催すると言うことで。異論なんてないがな。まあ全員の予定だけでも聞いてまわっただけ、進歩があるということだろう。意思を聞いてまわってくれれば良かったんだがな。ちなみに俺は賛成派である。どうせ何もすることがないんだ、たまには学生らしくパーッと騒いでも文句はないはずだ。誰もな。
全てが順調に進んでいるというようなとても満足した顔でハルヒは大きな手提げ袋に手を突っ込んだ。
「で、折角のクリスマスなんだから、色々と準備もしなきゃならないでしょ? そう思って準備してきたの。こういうのは雰囲気作りから始めるのが吉ってもんよね」
取り出したのは、スノースプレー、金や銀のモール、クラッカー、ミニチュアサイズのツリー、トナカイのぬいぐるみ、白い綿、電飾etc…って一体どうなってんだその袋の中身!青い猫型ロボットもびっくりだな。
「この殺風景な部屋をもっとほがらかにするの!」
殺風景かもしれんが十分ごちゃごちゃしてるぞ、おい。
「クリスマスを積極的、かつ前向きに味わうためには形から入るのがベストね!あんたも子どもの頃こんなことしたんじゃないの?」
するもしないも、あと数日もしたら妹の部屋が現在進行形になる。そしてその手伝いを母親に命じられるに違いない。純真な俺の妹は俺がとっくの昔に気付いた父と母の偽装工作を疑わず、サンタ伝説を信仰しているらしい。
「あんたも妹さんの純真な心を見習いなさいよ。夢は信じてこそ、でしょ。そうでないと叶うものも叶わないわ。宝くじは買わないと当たらないのと一緒。誰かが一億円の当りくじをくれるなんてことあるわけないんだからね!ましてや道に落ちてるなんてそんな馬鹿げたことは絶対にないわ!」
ハルヒは嬉しそうに怒鳴ると言う器用なまねをしてみせつつ、自ら三角帽子をかぶる。そのあともハルヒのありがたーい説教のような話が続き、お茶を入れて来た朝比奈さんに少し早めのプレゼント、を渡した所で、俺と古泉は部室の外に放り出された。廊下は冷えるな。
「朝比奈さんには悪いですが…」
朝比奈さんのあられも無い声に妄想を蔓延らせかけた俺に、廊下の壁にもたれて腕を組む無駄な面と物腰の良さを誇る男がヒマを持て余したあげく、声をかけてくる。
「涼宮さんが楽しそうにしているうちは、僕にとても安心感を与えてくれますよ。イライラしている姿を見るのが一番胸の痛む事柄ですから」
「あいつがイラつくと閉鎖空間が起きるからか?」
古泉はすい、と優雅に片手の薬指で前髪をかきあげ、
「ええ、それも大きいですね。僕と僕の仲間が一番恐れるのは何よりも閉鎖空間と《神人》の存在ですからね。簡単そうに見えたかもしれませんが、あれでも苦労しているんですよ。有り難いことにこの春以降は、出現回数もどんどん減っていますが」
「ってことは、たまには出てくるのか」
「稀にね。ここのところは深夜から明け方頃に限られています。涼宮さんが眠っている時間帯ですよ。おそらく、嫌な夢を見ている時に無意識に発生させてしまうのでしょう」
「だから最近どことなく眠たそうだったのか」
「え、」
しまった、と思った時には遅かった。古泉の目は珍しく驚愕に見開かれていた。何がしまったなのかは具体的にわからなかったが、顔にも出ていたに違いない。
「…気付いて、いらっしゃったんですか」
「なんとなく、だなんとなく。長門が今笑ったかもしれんとかそんなくらいの予感だ」
自分でもなんて言い訳をしているんだろうと思ったが、気付いてしまっていたのだから仕方がない。ただプライベートなことを聞くのも悪いと思って聞けなかっただけで、
「…ありがとう、ございます」
ただそれ以上の反論は、古泉の顔を見たら出なくなってしまった。あまりにも幸せそうに、そして、悲しそうに笑うからだ。俺にどうしろっていうんだお前は。さてどうするべきかと固まっていると、
「もう良いわよ!」
と唐突に扉が開かれた。「うぉわ!?」情けない悲鳴のような声を出しながらドアにもたれていた俺は部室の仲に転がり込むことになる。
無様に頭か背中を打つであろうことを予測したのだが、一向にそんな感触は訪れない。背中より、引っぱり上げられた腕の方が痛い。ん?引っ張られた?
そろそろと目を開けると、目の前にYシャツと見慣れた色のブレザーが広がった。誰のかは言うまでもないだろう。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ…わ、るい、な…」
心臓がばくばく言っていた。突然のことで驚いたからだ。
「何やってんのよ、まったく。危ないからドアにもたれるんじゃないわよ!」
「だ、大丈夫ですかぁ〜?」
「あ、大丈夫、で、す」
そして俺は朝比奈さんの方を向き、改めて固まることになった。俺の目の前には完璧すぎるくらいに可愛らしいサンタさんがいたのだから。
「かっわいいでしょ?」
「ええ、陳腐な言葉しか言えませんが、非常に良いですね」
目を白黒させている朝比奈さんの肩を抱きつつ、ハルヒは誇らしげにしていた。その気持ちは充分わかるがな。ふと長門を見ると、いつものように読書をしていた。頭の上に三角帽を乗せっぱなしで。
そのままハルヒはあれよあれよと自分勝手に話を進め、いつの間にかクリスマスイブには部室で鍋をすることになってしまっていた。別に異論はないけどな。どうせ俺も片棒の端っこをちょいと摘んでいるようなもんだからな。それに、ハルヒの料理もそれなりに楽しみにしてるんだ。
というようなことがあったと、かいつまんで谷口に話していたら学校へついてしまった。ただその後谷口から聞いた話は俺を憮然とさせた。どおりでうら寂しいはずのクリスマスイブの話をこいつから振って来た訳だ。彼女が出来たとはな。
まあ谷口なんざどうでもいい。そう言わせるような事態に俺はこのあと陥ってしまったからな。
その日の放課後は俺と古泉が飾り付けに追われたくらいで、ハルヒはいつも通りにふんぞり返って指示を出すだけ。朝比奈さんはいつもと少し違い、サンタ姿でお茶汲み兼マスコット係、長門は三角帽を乗せたままハードカバーを読みふけるという、クリスマス前の平和な一日だった。
さて、少々長いプロローグもここまでである。本題は翌日から始まる。ひょっとしたら今日の晩から始まっていたのかも知れないが、俺にとって問題だったのは翌日からなのだからどうでもいいだろう。
十二月十八日。俺を恐怖という名の奈落の底に突き落とすような事件が起きた。
あらかじめ言っておこう。
俺にとってそれは、ちっとも笑えない事態だったのだ。
朝、いつものように妹の必殺布団剥がしによって傍らにいた三毛猫と共に目覚めさせられた。妹は母親の命令に忠実だからな。
「朝ご飯ちゃんと食べなさい、ってお母さんが。シャミも、ご飯できてるよ」
にこにことしながら妹は文化祭以降うちの飼い猫になったシャミセンと戯れる。あの映画の時人間と同じ言葉を喋ったのが嘘のように普通の猫と化しているどころか、猫語さえ忘れたように滅多に鳴きもしない。煩く無くて良いが、妹から逃げる為に俺の部屋へやってくるシャミセンの元へ、ますます妹が足繁くやってくるようになったことは閉口する。
「しゃみー、しゃみ−、ごっはんっだよーっ♪」
調子外れな節を付けて歌いながらシャミセンを抱き上げ、妹は部屋を出て行く。俺は寒さを肌に感じて、暖かい布団へ再びもぐりたい気分になったが仕方なく腰を上げた。そして着替えと洗面を終えると5分で飯を平らげ、妹より二足早く家を出た。今日も快調に寒い。
ここまでは、いつもと同じだったさ。
例によって坂道を上る俺の目に、見慣れた後頭部が映った。たまには俺から声をかけてやるのも悪く無い、そう思って肩を叩く。
「よう、谷口」
「…む、キョンか」
声がくぐもっていると思ったら当たり前だ。谷口は白いマスクを装着していた。昨日はなかったのにな。
「どうした? 風邪か? 昨日はあんなに調子良かったのに」
「ああ…? 何言ってやがる、昨日も調子は良く無かったぞ、げほっ、げほっ」
咳き込む谷口なんてもの見慣れないせいか、こっちも調子が狂う。しかし、昨日も調子が悪かっただって?嘘つけ、いつも通りのお調子者で、イブの予定を嬉しそうに語っていたじゃないか。まあ、デートまでには治せよ。
「デートだぁ? なんのこ…げほっ、とだよ。俺はイブに予定なんかねーぞ」
谷口は首を捻りながら言うが、首を捻りたいのはこっちだ。光陽園女子の彼女はどうした、ひょっとして昨日にでも振られたのか?
「おいキョン、マジでてめーは何言ってんだ?俺はそんなもん知らねーよ」
それきり谷口は黙ってしまった。まあ昨日あれだけ俺に語ってみせたんだ、俺と顔を合わせるのも心苦しいのだろう。
「気を落とすな。今からでもやっぱり鍋大会に参加するか?」
「鍋? どこでそんなもんやるんだよ」
よほどのショックだったんだろう、しばらくは何を言ってもスルーしてしまうらしい。なら俺は何も言わないさ。
のろのろ歩く谷口に続き、俺も坂を上っていく。
この時点で気付くのは、俺にもまだ無理だった。
驚いたことに五組の教室には風邪が蔓延しているようだった。予鈴ギリギリに教室に入ったというのに、空席は目立つし、生徒の二割が白いマスクを付けていた。全員の潜伏期間と発症時期が同じだったのだろうか。
更に驚いたのは、チャイムが鳴っても俺の後ろの席が空白だったことだ。
「なんと、まあ…」
ハルヒまで病欠してんのか、珍しいことだ。てっきりあいつは風邪を引くことなんてないと思っていたんだが。むしろクリパの為に何かまだ悪巧みをして、その為に休んでいると考えた方がすっきりする。
ハルヒがいないせいか、それとも風邪のせいで騒ぐ人間もいないせいか、五組の総人数が減っているような気すらしてきた。なんとなく、空気が違う。静かすぎるせいだろうな。
そのまま何事もなく順当に俺たちは昼休みを迎えた。俺が冷えきった弁当箱を取り出していると、近づいて来た国木田が後ろの席に座る。
「休みみたいだから、ここに座っても良いよね」
今更だろう。高校で同じクラスになって以来、昼飯を国木田と谷口の三人で食うのは半ば日常化されている。谷口は今日は学食なのか、見当たらない。
「それにしてもなんかいきなり風邪が流行り出してるみたいだな。うつされなけりゃいいんだが」
「ん? 風邪なら一週間前から流行の兆しを見せてたよ、インフルエンザじゃないみたいだけど、そっちのが良かったかもね。今は特効薬もあるし」
「一週間前?」
思い返してみるが、一週間前誰かが病原菌をばらまいているような様子はなかったように思う。欠席者も、咳をしているやつも居なかったはずだが、俺の知らない所で病魔が進行していたのだろうか。
俺と谷口の話も、国木田と俺の話も食い違っている。ハルヒもいない。俺の第六感がぴりぴりと嫌な予感を告げていた。
事態はその通りで、俺の勘も捨てたものではなかった。ただ、勘でわからなかったのはそんな事態になって困るのは誰か、ということだけだった。ハルヒでも、全人類でもない。困ったことになるのはただ一人で、なぜなら他の連中は事態の発生に気付きもしないからだ。彼らにしてみれば認識外のことで、世界は何も変わってはいなかったのだから。
ならば、困ったのは誰だ? 簡単である。俺だ。俺だけが困惑の中で立ち尽くし、呆然としたまま世界に取り残されることになった。そう、やっと俺は気付いた。
十二月十八日、昼休み。形を伴った悪い前兆が、教室のドアを開くことによって。
わぁ、とクラスの女子から歓声があがり、俺は何気なく重役出勤して来たそいつをわらわら群がるセーラー服の隙間から見た。
通学鞄を片手にぶら下げたそいつは駆け寄って来た友人たちに向かって言う。
「うん、もう大丈夫。点滴を打ってもらったら、すっかり良くなったから。家にいてもヒマだし、午後だけでも授業に出ようと思って」
誰かの質問に答え、そいつは柔らかく微笑した。そのままセミロングの髪を揺らしつつ、こちらへ…歩いて、きた。
「あ、どかないと」国木田の声も今は遠かった。俺は呼吸することも忘れたようにそいつの顔を凝視していた。
「どうしたの?幽霊でもみたような顔をしてるわ。それとも、わたしの顔に何かついてる?」
ついているもいないも、まさしく俺は幽霊を見た気分だ。いや、幽霊としてすら出て来れるはずがない。だって、お前は。
「朝倉、涼子…」
「ええ、どうしたの? まるで悪い夢でも見ていたみたいだわ」
そいつは俺の顔を見て、再びにっこりと笑った。
ありえない。どうしてだ。お前は長門に消されたはずで、情報に魂なんて概念もないだろうから、幽霊としてでも出るはずがない。それよりも、どうして。
「なんで、お前がこの席に鞄を置くんだ、ここは、ハルヒの席だろう」
「ハルヒ? だあれ、それ」
「聞いたこともないなぁ、ハルヒさん?どんな字を書くんだい?」
国木田の台詞に、俺は絶望感を感じずにはいられなかった。お前ら、どうしてあんなインパクトのある女を忘れられるんだ。
「…ハルヒは、ハルヒだ…」
俺は絞り出すようにそう言うのが精一杯だった。
何事か言われた国木田が引っぱりだす名簿をひったくるようにして俺は見た。坂中、鈴木、瀬能…鈴木と瀬能の間に涼宮の文字はない。ハルヒの名前は消されている。そんな奴どこにもいない、と俺に見せつけているようだった。
「国木田…」
「なんだい?」
「俺の頬をつねってくれ、思い切り」
「いいの?」
思い切りやられた。痛い。古典的だが、夢でもないらしい。夢だとしたらどんな悪夢なんだこれは。
具合が悪いんじゃない?、と言って俺の手を掴もうとする朝倉の手を振り切り、俺は教室を飛び出した。違う!と叫び出したい気分だった。
誰か、と口に出してまっさきに思い出したのは、よりにもよって古泉だった。が、すぐにその考えを打ち消す。長門に聞いた方が早い。長門なら全てを解決してくれるはずだ。
しかし長門は教室にいなかった。が、絶望するのは早い。あいつなら多分、今は部室にいるはずだ。仕方なく俺は古泉がいるはずの九組へと向かう。知らず知らずに足は速くなり、気持ちが焦る。頼む、そこにいてくれよ。
しかし俺は九組を目の前にして固まることになった。
「…なん、なんだよ…これ…」
そこに、古泉はおろか、九組など存在していなかった。
古泉一樹という存在ごと、九組は消滅していた。教室すら存在せず、そこにはただ非常階段に続く踊り場が広がっていた。
「いくらなんでも、これはないだろ……」
俺は呆然とその場に座り込んだ。
どうか、悪夢なら今すぐ目覚めてくれ。
正直言って俺は参りきっていた。だってそうだろう、昨日まで居たはずの人間がいなくて、昨日まであったはずの場所がない。マシュマロマンのような生物教師に声をかけられて俺はふらふらと教室に戻るものの、授業など耳に入るはずもなかった。
なあ、誰かこんな風にしたんだ。ハルヒ、お前か?
後ろでシャーペンを走らせる朝倉より、今は古泉とハルヒが居ないことの方がよっぽど怖かった。色んな奴に聞いて周り、「知らん、そんな奴」と言われる度にずぶずぶと底に沈んでいくことすら怖くて、もう誰にも聞けないでいる。
谷口はもとより、俺を気にしていた風のある国木田も帰ってしまった。朝倉も数人の友達と教室を出たが、俺を見る目はクラスメイトを気遣う様子すら見えて、ますますクラクラした。何もかもがおかしすぎる。
どのみち俺の居場所は此処にはない、と掃除当番の連中の視線に引きずられるようにして教室を出た。悄然と階段を下り、一階にたどり着いた所で、俺は一筋の光を見た。
「朝比奈さん!」
いた。少なくとも朝比奈さんはいてくれたのだ。隣には鶴屋さんの姿まである。俺は喜びのあまり駆け寄り――――驚愕に怯えの色をにじませる朝比奈さんの顔を見て、足を止めた。
そうだ、この朝比奈さんが俺の知っている朝比奈さんとは限らないのだ。世界は既に俺の知っている世界ではない。それを裏付けるように、彼女の手から習字セットがごとりと重たい音を立てて落ちた。
「はは…そんなわけ、ない…か」
俺は思わず目を手で覆った。乾いた笑いしか出て来なかった。
「あ、あの…?」
「……多分、俺のことおかしな奴だと思うと思います。だけど、それでも良いので聞いてくれますか」
殆ど懇願に近かったと思う。その証拠に朝比奈さんは少しだけ困ったような顔をして頷いてくれた。
「涼宮ハルヒ、古泉一樹という名前に覚えはありますか。未来人というキーワードに覚えはありますか」
「え、えっと…あの…」
やはり、だ。解ってはいたものの、壁に拳を思い切りぶつけてしまいたい気分だった。
「…ごめん、なさい。あたしには、何もわかりません」
「いえ、良いんです。すみません。鶴屋さんも、お邪魔しました」
「あれ、僕ちん、あたしの名前…」
最後まで聞く前に俺は走り出した。「あ、ちょっとー!」という元気な鶴屋さんの声が聞こえたが、それも無視した。あれ以上俺を知らない二人を見ているのは嫌だった。
ハルヒの携帯にかけても『この電話は…』と虚しい応答が聞こえるだけ。自宅の電話は知らんし、名簿は名前自体無い。自宅もそう言えば知らない。古泉も同じくだ。
職員室にも行って聞いてみたが、涼宮ハルヒと言う存在はおろか、古泉一樹という転校生も存在したことがないという答えが返って来ただけだった。処置無しだな。誰からどう見ても俺が病気としか思えないだろう。
あとはもう、一カ所しかない。朝比奈さんがいたんだ、きっと居てくれるはずだ。
「頼むぜ」
呟いて俺が向かうのは文芸部室だ。最後の砦、最終防衛ライン。ここが崩されたのならば、もう打つ手はなしだ。最悪の状態だけは覚悟しなければ。
昼休みよりは幾分かマシになった心拍数を聞きながら、俺はドアに手をかけた。指が震えて力が入らない。ええい、ままよ!俺はノックを省いて扉を勢い良く開けた。
「…!」
そして、見た。
いつもの定位置に座り、本を広げたその姿。ただ違ったのは、
驚いて口を薄く開き、眼鏡のレンズ越しに俺を見る長門有希ということだった。
「は、はは…」
俺はその場でずるずると座り込んだ。眼鏡をしている。だからこれはきっと俺の知っている、俺がそうで居て欲しかった長門じゃない。読んでいる本も、本棚に並ぶ本も、腐女子の欠片もない。…俺の知っている長門だということを、それで判断するというのも嫌な話だが。
そして、長門は驚いた顔をしているのだ。はっきりと解る程度には。それは多分喜ばしいことに違いない。だが、俺は喜べなかった。少なくとも今この状況では。
「長門、俺のこと、解るか」
「わかる、とは」
戸惑いがにじみ出た声だった。俺は諦めて質問を変える。
「涼宮ハルヒ、古泉一樹、情報統合思念体、宇宙人、対有機生命体ヒューマノイドインターフェース、自立進化の可能性、機関、未来人、自らの願望を叶える力、…これらに、聞き覚えはあるか」
「…?」
長門は首を傾げるだけだった。
「ごめんなさい、わたしには何も聞き覚えがない」
「…そう、か…いや、良い、予想は…してたんだよ」
そう言いながらもう一歩も動きたく無かった。俺の知ってるあいつらは、この世界のどこにももういないのだ。ハルヒと古泉は、存在すら消えてしまっている。どうして、何故。ちくしょう、ゲームオーバーじゃねえか。
ハルヒが持ち込んだ私物も、古泉が持ち込んだボードゲームも、メイド衣装もなければサンタの孫娘もいやしない。ナッシングアットオール。
ふと長門を見ると困惑の表情で俺を見ていた。
「なあ、俺のこと、知っているか?」
「…一応。五組の生徒だと知っているけれど、ちゃんと会話したのは初めて」
「そう、か」
床に座り込んだまま俺はぐるりと部屋を見回した。あのカオス空間が懐かしいと思う日がくるとは思わなかったな。
ふ、とパソコンが目に留まった。そうだ、ハルヒに連れてかれた閉鎖空間でもパソコンは向こうと繋がったじゃないか、もしかしたら。
「長門、頼みがあるんだ」
「…なに?」
「パソコンを、少しいじらせてくれないか?」
少し考え込んだ後、長門はパソコンの前までぎこちなく移動する。
「少し、待ってて」
「悪いな」
OSが立ち上がるまでホットの缶コーヒーが子猫の飲み頃になるくらい時間がかかった。何しろ旧式だ。仕方あるまい。立ち上がった後長門は何やら操作していた。見られて困るようなファイルを移動するか、消すかしたのだろうと予測する。
「どうぞ」
か細い声で長門はいうと、また定位置に戻った。
「サンキュ」
俺は短く礼を返すと早速モニタを眺めMIKURUフォルダとSOS団サイトのフォルダを探したが、疲労感が増しただけだった。
「ないか、やっぱり」
溜息とともにそんな言葉が滑り出た。これ以上何かほじくり返すのは長門に悪いだろう。それに俺が本当に見たかったのはフォルダではない。いつぞやの閉鎖空間のように長門がヒントになる言葉をくれるのではないかと思ったからだ。
「…邪魔したな」
疲れた。もう帰って寝よう。それが一番だ。目が覚めたらこれが正常だと思うようになっているかも知れないし、ハルヒたちが戻っているかも知れない。全部悪い夢だったのだと。
「、待って」
震える小動物のような声が俺の背中にかかった。振り向くと、長門は本棚の隙間から藁半紙を引っこ抜き、俺に差し出す。
「よかったら、持っていって」
はにかむように笑う長門から差し出されたのは、白紙の入部届けだった。
せめてもの救いは、俺が超常現象を見慣れていた、ということだろうか。だからまだどことなく冷静で居られる。悪いのは、また誰かが助けてくれると期待してしまうことだろう。
状況を鑑みると俺の頭がおかしくなったか、世界がおかしくなったかのどちらかなのだろう。しかし俺は前者を否定出来る。きっぱりと。なぜなら俺の頭には、四月から昨日までの奴らと過ごした時間がはっきりと刻まれているからだ。この記憶が嘘だと言うなら、この世界の方が嘘に決まっている。
腐女子だった宇宙人はただの読書好きの引っ込み思案な眼鏡っ娘、腐女子だった未来人は見知らぬ上級生、腐女子だった台風の中心は、どこにもいない。
そしてあいつは? そろそろ運命共同体となりつつあった、あのにやけ顔は。どこに居るんだよ、不安になるじゃねえか。
「…くそ、なんで俺が古泉のことなんか考えなくちゃならねぇんだよ…」
閉鎖空間で二人きりになったあげく、腐女子の萌えの糧にされ、また先日の映画騒動でも腐女子の餌食になった。少なくとも色んな事件に巻き込まれる時、あいつの姿がいつも傍にあったはずだ。
それがどうだ。今あいつはどこにもいない。あいつだけじゃなく、誰もいない。俺の知ってる奴らは、どこにもいないのだ。
「もしか、したら…」
口にしかけてぞっとした。この世界に存在すらしていないのかも知れない、だなんて。
そんなこと、あってたまるか。
家に帰って妹に問いかけても知らない、の一言。もしやと思ってシャミセンに話しかけてみるが、まったくの無駄。当たり前だがな。
そんな絶望に満ちた十二月十八日が終わり、次の一日が始まる。十二月十九日。本日からやっと短縮授業が始まる。クラスには昨日よりも人がおらず、とうとう40度以上の熱が出たのか谷口の姿もなかった。
そして俺の後ろにはハルヒではなく朝倉がいて、俺を心配するような素振りさえ見せるのだ。「俺を犯そうとした」なんて間違っても口走らなくて良かったと改めて思ったね。精神病院まっしぐら、だ。
俺は向こうの世界で不幸だった訳じゃない。そして、今この世界で特別幸福な訳でもない。
確かに、これ以上ガチホモだとか萌えがどうだとか言う腐女子に巻き込まれないのは有り難いことと言えるだろう。イライラすることも、ドキマギすることもなく、平穏な普通の生活を送れる。
だがそこに、古泉はおらず、ハルヒもおらず、長門と朝比奈さんは普通の人間。SOS団なんてものは欠片も存在せず、エイリアンもタイムトラベルもESPもなしだ。まして猫はしゃべらないし、少女の機嫌だけで傾く世界ではない。
俺は今、それで幸せか?
放課後、勝手に足が文芸部室に向かって歩いていた。帰省本能といつぞや口にしたのは正しかったらしい。習慣化されちまってるせいだろうな。
いつだって放課後SOS団にいき、朝比奈さんのお茶を飲み、古泉と顔を突き合わせてボードゲーム。時々は長門に本を借りてみたり、ハルヒのアホみたいな提案に付き合ってばか騒ぎ。その習慣が悪癖だったとして、むしろ悪癖だから止めろと言われても今更だ。
しかし今日は、少しだけ雰囲気が違った。
「どうすんだ、これ」
手の中の白紙の入部届けを見てぽつりと呟いた。まあ、入部して欲しい、という意思の現れなんだろうが、いきなり現れてわけの解らんことを言うような男、困っていても入部して欲しいと思うものだろうか。自分で言うのもなんだがな。
「あっ…」
部室棟に行く途中、小さな愛らしい声が聞こえた。それに気付いた鶴屋さんが招き寄せるように手を振ったが、俺は会釈するだけで遠慮しておいた。話せることは、どうせ何もないんだ。もう一度、あの甘露を飲める日常に戻りたい。
今度はノックをして、返事を聞いてから扉を開けた。部室にいた長門が俺を見て、またすぐ手元の本に目を戻した。
「また来て、良かったか?」
小さな頭がこくりと頷く。関心が俺に戻る様子もなかったので、そのまま近くにあったパイプ椅子に座る。しばらく本棚を眺めていたが、沈黙に耐えきれず俺は口を開いた。
「全部お前の本か?」
答えはすぐに返って来た。
「前からあったものもある。これは借りたもの。市立図書館から」
長門が一瞬俺の目をじっと見つめたが、すぐに目を書物に戻した。それから二、三言交わしたが、得られたのはこの長門は小説を書いているかも知れないと言う、それだけのことだった。
「…ん?」
じろじろと本棚を眺めていて、何かがひっかかった。昨日にはなくて、今日にはあるもの。俺は思わず息を呑んだ。あれだ。初めて長門に会ったとき、また、長門に半ば無理矢理貸された本。昨日はなかったはずだ。
長門に誤解されるのもまずいだろうと思い、そろそろと、ゆっくりそれに近づき手に取る。中身も、表紙も、あの本だ。パラパラとめくり続けた時、ひらりとしおりが舞い落ちた。
――――見つけた。
俺は素早く本を元に戻し、震える手でそれを裏返し、見た。
『プログラム起動条件・鍵をそろえよ。最終期限、二日後』
俺はすぐに長門に向き直り、聞いた。
「これを書いたのは、お前か?」
「わたしの字に似ている。でも、書いた覚えはない」
答えるまでに数秒のタイムラグがあった。長門は困惑しているらしい。
「そうか。いや、良いんだ。知ってたら逆に困ったことになるところだったからな。いや、こっちの話だ、気にしないでくれ」
訳の解らないだろうことを言う俺は、おかしなやつに見えただろう。
長門。
やはりメッセージを残してくれていたのか。これは状況を打破するためのプレゼントで良いんだろう?じゃなきゃこんな期待させるようなコメントを残さないだろう?
ただぬか喜びもそこまでだった。二日後、というのはいつから数えて二日後なのか解らない。最悪明日だ。そして、鍵、というのがさっぱり解らなかった。そして、プログラムを起動さえすれば世界は元に戻るのか?
「…まったく見当がつかん」
キーパーソンなのか、キーワードなのか、それともなんらかのアイテムなのか。そろえよ、というのだから1つということはないだろう。
ぼうっと長門を眺めていると、僅かに頬に朱が差しているのを見つけて、少しだけ面白い気分になった。そのままじっと見つめ続けると、ますます赤くなる。呼吸音すら聞こえそうなほどだ。じっと本に注がれた視線は、字を追ってすらいない。本心をいえば、そんな長門はかなり可愛かった。うっかりこのままのんびり過ごしたっていいじゃないか、と思ってしまうほどには。
けれど、そんな訳にはいかない。俺はやるべきことを見つけたし、ヒントをくれた長門は俺にまだ用があったはずで、俺にだってまだ向こうの世界に未練がある。手製の鍋料理は食ってないし、朝比奈さんのサンタ姿も目に焼き付けていない。飾り付けのため中断となった古泉との勝負にカタをつけなければならないだろう。あのまま行けば俺が勝ったはずなので、百円損したことになる。
窓から西日が射し始めたころ、俺は鞄を持って立ち上がった。そのまま帰ろうとしたのだが、どうしたことか長門の家に寄っていくことになった。
そこで五月、図書館で偶然長門にあい、面倒を見てやったと言う話を聞かされたのだが、俺の記憶とは食い違っていて、覚えている、と言ってやることが出来なかった。お陰で長門に悲しい顔をさせてしまったし、朝倉にもばったりと会ってしまった。そして何故か現在俺はおでんを食していた。
味覚は美味い、と叫ぶように告げていたが、感覚としては何を食ってるのか解らないような気分だった。気まずい食事が一時間ほど続き、
「また明日、行っても良いか?他に行く場所ないんだ」
そう聞いた俺に長門はうすくだが、はっきりと微笑んだ。目眩がした。
その後俺は帰ると言う朝倉にならって長門の家を出た。
「あなた、長門さんのこと好きなの?」
エレベーターの中で唐突に朝倉がそんなことを聞いた。どうだろう、と俺は呟くように返事を返した。嫌いではない。好きな方だろう。何度も救われた。恩義を感じてはいるが、恋愛対象としての意味ならば、そういう好意は一切ない。
俺の曖昧な答えをどう思ったか知らないが、朝倉は忠告のようなものを残して帰っていった。どうせなら前回俺を犯すだのなんだの言う前にその忠告の言葉を聞きたかったね。
マンションから出ると身も凍りそうなほど、外は寒かった。多分、体だけじゃなく心も冷えてしまっている。どうしようもなく凍えそうだった。
さっさと眠りについてしまいたかった。人の夢にはた迷惑な登場の仕方をするくらい、あいつのことだ、やってみせるかも知れない。
「喋ってても喋ってなくても迷惑なんだ、こんな時くらいアホみたいに笑いながらいつものように講釈並べ立てやがれ。たまには人の話も聞いてくれてもいいだろうが…」
呟きながら、俺が今誰のことを考えているかに気がついて、そんな忌々しい考えを頭ごとどこかに打ち付けてしまいたくなった。
「なんてこった」
俺は今、無性にあのへらへらとした笑顔の古泉に会いたかったのだ。
十二月二十日。世界がおかしくなってから三日目。奴が夢に現れることもなく俺は目が覚めた。相変わらず胃に三十ミリ弾がダース単位で入っているような気分で体を起こす。シャミセンがごろりと床に転げ落ち、俺はその腹の柔らかい感触を足裏に感じつつ、現実逃避をしたくなって来ていた。
かといって本当にそうするわけにも行かず、思い足取りで学校に向かった。鍵は見つからない。下手したら、今日が期限だというのに。長門でも期間限定が精一杯という事態なのだろうか。気力のなさが体力にフィードバックしているせいで、予鈴ギリギリに教室へ入る。どうにか一日休むだけで済んだ谷口はマスクをして席に着いていた。お前がそんな学校好きだったなんて、初めて知ったよ。
授業の間も俺の後ろ向きな思考は止まらなかった。もしかしたら俺が現実だと思っていたものの方が夢だったのかも知れない。涼宮ハルヒなんて人間は最初から居らず、朝比奈さんは手の届かない上級生、長門は大人しく引っ込み思案な可愛らしい女の子。古泉一樹という転校生も来ない。おもしろおかしくやりたい、という願望が俺に見せていた夢だったのだろうか。だとしたらフロイト先生も吃驚だな。
机に突っ伏して頭を冷やしていると、呑気な鼻声が聞こえてきた。
「よ、キョン」
「お前か」
「なんだよその反応。まあいいや、次の科学俺が当てられそうなんだよ、ちょっと教えてくれ」
同じような学力の俺が当てになるはずもないだろうが。
「おい、国木田」
俺はトイレから帰って来たコンビの片割れを呼んでやった。
「水酸化ナトリウムについて知ってる限りの情報を谷口に教えてやってくれ。特に塩酸との仲が知りたいらしい」
「まあまあ良いんじゃないかな。混ぜると中和されるし」
そのまま国木田が化学式やらなんやらを説明するのを聞き流していたが、一段落したころ谷口が変な感じのする笑みをこちらに向けた。
「おいキョン、サッカーの時聞いたんだが、お前なんかやらかしたんだって?」
「まあな」
俺は手をヒラつかせた。とっとと去れという合図だったのだが、谷口はにやけ面のまま、
「しかもハルヒがどうこうって。お前それ、涼宮ハルヒのことじゃねぇだろーな」
「そうだよその涼宮……え」
がたん、と音を立てて椅子が転がった。俺はそのくらい驚いて立ち上がったのだ。
「お前、今、なんて」
「だから、涼宮ハルヒのことだろ?俺の中学三年間の同級生だよ、イカレた女でなぁ、」
「涼宮ハルヒを知ってるのか!」
あまりのことに俺は谷口の胸ぐらを掴むと鼻が付き合いそうな位置にまで顔を近づけた。
「教えろ!今どこにいるんだ!」
「な、なんだよ急に。一目惚れでもしやがったのか?言っとくけどあいつは…」
「知ってる、そんなことどうでも良い。早く教えろ」
俺の声は唸り声のようだったに違いない。谷口は狼狽しつつ、
「光陽園学院」
あのお嬢さん高校にか?と俺が聞くと、谷口は憐れみの視線を俺に向けた。
「お前の中学校じゃ何教えてたかしらんが、あそこはバリバリの進学校で共学だぞ」
俺は呆気にとられて手を離した。なんてこった。北高にいないからハルヒはどこにもいないだなんて、俺の想像力はたった今カマドウマ以下に決定された。田舎に帰ったら縁の下で語り合うのが相応しいだろう。
「おい、どうした?やっぱお前頭おかしいんじゃ…」
深刻そうに俺を見る谷口と国木田の視線も気にならなかった。今はやるべきことがある。俺はドアに向かって走る。
「キョン、どこ行くの?」
「早退する」
「鞄も持たずに?」
邪魔だ。
「国木田、岡部に聞かれたら俺は発狂したとでもなんとでも言っとけ。それから谷口」
口をあけてぽかんと俺の行動を見守っていた愛すべきクラスメイトに、俺は心から感謝を述べた。
「ありがとな」
「あ、ああ…?」
きっと今まで見たことがないような笑顔になっていたに違いない。谷口どころか国木田まで目を丸くしていた。
気持ちが焦ったせいか、急ぎすぎた。おかげで俺は不審者の如く二時間ほど光陽園学院の近くで待つことになった。乗り込んでも良かったが、流石は私立。門の前に警備員がいたのであえなくUターン。
そして聞き慣れないチャイムの音を確認したあと、しばらくして校門から溢れ出るように生徒たちが吐き出された。なるほど、谷口の言っていたことも確かで、女子がブレザーなのは変わらないが、一緒に詰め襟の男子も出てくる。ちょうど北高とは逆だな。男女の比率は女子のほうががやや多い気がするが、
「なんと、まあ」
男の中に何人か見たことのある奴がいた。一年九組の生徒だ。消えたと思ったら此処に来ていたのか。無意識に古泉の姿を探してしまうが、一年九組がここにあるからと言って古泉がいるとも限らない。すぐにハルヒを探すことに集中した。すんなり会えるかどうかは一か八かだ。
もしかしたら、なんて思わないでもない。ここでもSOS団と同じ組織を形成し、楽しくやっているのかも知れない。そう思うと五臓六腑がデングリ返し叛乱を起こしそうになる。俺や長門や朝比奈さんが用済みだなんて、そんなことは思いたく無い。俺は脇役にもなれず、完全なる部外者になってしまう。誰に祈れば良いんだ?
キリストか釈迦かマホメットかマニかゾロアスターか、何だって良い。なんならハルヒに祈ってやる。長門でも、朝比奈さんを拝んでも良い。この際古泉でも。藁にも縋る想いだ。
苛立ちと焦りと後ろ向きな感覚に満ちた数分間。
「……ふぅ」
俺の漏らした息の意味を、俺自身も正確に読み取れない。どうして俺はこんな盛大な溜息を、こんな明るくつくのだろうね。
いた。
校門から吐き出される黒ブレザーと詰め襟の群れの中に、寿命が来るまで忘れようのない女の顔が混じっていた。
髪は長い。ストレートのままなので、ここでのこいつは七変化をさせていないらしい。黄色いカチューシャとリボンは相変わらずだった。
そして俺はその後ろに、オマケの姿を見た。詰め襟に身を包む、あのにやけ顔。感想としては、あんまり似合わねぇな、その学ラン。
ここでのこいつらは一緒に下校するような仲らしい。ハルヒは表情まで初期に戻したのか、ムスッとした顔でアスファルトを眺めていた。どこか懐かしい、なんて感慨にふけっている暇はない。二人が近づくにつれ、俺の心臓は押さえようもなくアップテンポを刻んでいた。
「おい」
すぐ目の前にあった頭が顔を上げて俺を見た。
「何よ」
冷蔵庫に付着した霜のように冷たい視線だった。その視線が俺を一瞥し、すぐに逸らされた。
「ていうかあんた誰。知らない男からおい、なんて呼ばれる筋合いなんてないわ。ナンパなら他をあたって。そんな気分じゃないの」
「そんな気分じゃなくてもお前なら断るだろうけどな」
予想はしていた。だからそれほど衝撃は受けなかった。古泉も同じような様子で、訝しげに俺を見ていた。目にありありと不信感が浮かんでいる。
「お前とも、初めましてってことになるんだろうな、一応」
古泉はひょい、と肩を竦めてみせた。
「そのようですね。どちら様でしたでしょうか」
「ここでもお前は転校生なのか?」
「転校して来たのは春頃でしたが…何故それを?」
古泉の目に警戒心が強く生まれた。こっちのこいつはそれほどポーカーフェイスは得意ではないらしいな。
「ハルヒ」
ぴく、とハルヒが頬を動かし、大きな瞳で俺を睨みつけた。
「誰に断ってあたしを呼び捨てにするわけ? なんなのよ、あんた。ストーカーを募集した覚えは…」
「三年前の七夕を覚えているか」
ぴくり、とハルヒが反応した。俺は更に言葉を重ねる。
「あの日、お前は東中の真夜中の校舎に忍び込み、白線で絵を描いたよな」
「それが? そんなの誰だって知ってるわ」
なら、これはどうなんだ?俺は縋る思いで次の言葉を発した。
「忍び込んだのはお前だけじゃない。あさ…女の子を背負った男が一緒にいて、お前を手伝ったはずだ。彦星と織姫宛のメッセージで、内容は『わたしはここにいる』――――」
続く言葉は発せられなかった。伸び上がったハルヒの手が俺のネクタイを掴み、締め上げたからである。そのまま引き寄せられ、勢い良く俺の額とハルヒの石頭がぶつかった。
「ってえな!」
クレームをつけようと睨むと、向こうもこちらを睨み上げていた。この角度も、ハルヒの怒り顔も久しぶりである。
「どうして知ってんのよ。誰から聞いたの? いいえ、あたしは誰にも言ってない。あのときの…」
ハルヒは何かに気付いたように俺の制服を眺め、驚愕に目を見開く。
「北高、…まさか。……あんた、名前は?」
締め上げられるせいで答え辛い。馬鹿力女め。そして俺は少しの間考えた。馴染んでしまったニックネームを名乗るべきか、本名を名乗るべきか。どちらでもないな。このハルヒはどちらも知らない。なら残りは1つ。
「ジョン・スミス」
名乗った瞬間、ハルヒの手がネクタイから離れた。少々咳き込みつつハルヒを見ると、呆然とした様子で俺を眺めていた。
「…ジョン・スミス…? あんたが、ジョンだっていうの…?」
不意によろめいたハルヒを古泉が腕を伸ばして支えてやっていた。
繋がった。
俺はとうとう手掛りを見つけることが出来たのだ。この世界で唯一、俺の知っている過去の記憶を持つ人間を。
やっぱりお前か、ハルヒ。
このハルヒが三年前俺に出会っているというならば、この世界はあの日から繋がっているのだ。何もかもが「なかったこと」になっているわけじゃない。俺の歴史が間違っていた訳ではないのだ。しかし今はこんなことを考えている余裕はない。鍵だ。
「詳しいことを話したい。これから時間あるか? 長い話になると思うんだが……」
ハルヒは頷き、古泉もしぶしぶと言った様子で頷いた。
三人で肩を並べながら歩いていると、ハルヒが言った。
「ジョン・スミスには二回会ったわ。一回目は東中で、二回目はそのあとよ。後ろからあたしに向かって「世界を大いに盛り上げるためのジョン・スミスをよろしく!』なんて言ってたけど、あれなんだったの?」
知らん。少なくとも今の俺はそんなことなどしていない。他にもいやがったのかジョン・スミス。そしてなんてことをしてくれたんだ。いや、本当なら感謝すべきなのか? わからない。
とりあえず色々と会話しながら近場の喫茶店に入った。どうせならSOS団御用達の店が相応しいんだが、ここからでは生憎遠すぎた。
「まずこんなことを言ったらおかしな奴だと思われるだろうが、聞いて欲しい。俺の知っているお前は北高の生徒で、入学式のあと自己紹介でこんなことを言ったんだ…」
注文の品が届く前から話を始め、注文したホットオーレが一気呑みできるくらいの温度になるころには、殆ど全てを包み隠さずダイジェスト版で話終えていた。特に七夕の話は念入りに語った。そこが一番大事だと思ったからだ。そしてぼやかしたのはハルヒの力。神だとか時空の歪みとか進化の可能性とか、どこまでが本当かわからないからな。ただハルヒには奇妙な潜在的パワーがあり、自らの願望を忠実に再現してしまうことで世界を変えることが出来るかもしれない力がある、とだけに止めておいた。
「…ねえ」
長門や朝比奈さんのこともあらかた話してやったあと、ハルヒは世界一有名なお伽噺の猫のような顔で俺を見る。
「なんだよ」
「まだあるんでしょ、何か」
どきりとした。そう、俺は腐女子がどうこう、というのはこいつらにまったく話していない。話した所で大筋に関係はないからだ。
「いや、何もない」
「嘘おっしゃい。きりきり白状するのよ」
このままだと再びネクタイで締め上げられそうだったため、俺は仕方なく口を開いた。
「とりあえず聞いておく。お前、腐女子とかBLに耐性はあるのか」
「は?それって、同性同士の…特に男同士の絡みがどうとかってやつでしょ?」
それがなんなの?と問い返すハルヒの顔には、嫌悪の表情は浮かんでいない。まあ話しても怒り出したりはしないでくれるだろう。
「非常に言い難いんだがな…、」
俺は結局洗いざらい話してやった。俺にやろうとした数々のことや、実際にやったこと。
「で、俺と古泉が主にその妄想の対象となってた訳だ」
キス云々のことは言った所で古泉が嫌な顔をするだろうから、言わないでおいた。BLを題材にした映画を撮るのに主演に選ばれたりした、と言うことだけ完結に言った。
「ふぅん、まあ中々面白そうじゃない?別にあたしはそこまでホモがどうとかに興味ないからどうでもいいけど」
こっちのハルヒにしろ、長門にしろ、興味がなさそうなのは助かったと思うべきなのだろうか。
「それにしても、SOS団ね…すっごく楽しそうだわ!」
そう言ったハルヒの顔には満面の笑みが浮かんでいた。最近見慣れた笑みだ。
「おかげさまでな」
「あなたの言葉を信じるならば、」
俺とハルヒの会話を遮るように古泉が横やりを入れて来た。
まあ結局大した話ではない。古泉が言いそうなことで、俺も考えたことだ。
更に古泉は講釈を並べ立てるが、どこか投げやりな口調で俺をイライラさせた。どうせ俺のことだ、確かにお前には関係ないが。
しかしハルヒはそんな様子に気付かないまま爛々目を輝かせ、
「その長門さんと朝比奈さんにも会ってみたいわね。部室にも行ってみたいわ。世界を変えたのがあたしなら何か思い出すかもしれないし。ね、ジョン、あんたもその方が良いわよね?」
「反対する理由はないな。それで思い出してくれりゃあ万々歳だ。で、ジョンってのは俺のことか」
「そうよ、あんた以外に誰がいるの? あんたの元のあだ名…キョンだっけ。哺乳綱偶蹄目シカ科ホエジカ属の名前よりよっぽど人の名前じゃない。…さ、行きましょ」
一応尋ねておこう。どこにだ?
「北高にきまってんでしょ!」
にんまりと笑ったハルヒは待ちきれない、と行った様子で喫茶店を飛び出した。実にあいつらしい振る舞いで、俺は少し安心した。お前の突飛な行動はいつものことだが、それに驚かないのは長門くらいで……
「しまった」
俺は腕時計に目を落とす。とっくに放課後になっている時間である。今日も行くって言ったのにな、すまん長門。今からすぐに行く。
残された伝票を古泉が救い上げ、
「僕が奢るのは涼宮さんの分だけですから」
俺のも奢ってくれたらお前にだけハルヒにも言ってないことを教えてやってもいいのだが。
「ほう、なんでしょう?」
どこか小馬鹿にしたような笑みだったが、俺はそれを無視して話してやった。人間原理がどうしたとかいうハルヒ神様説、孤島での自作自演。いかにこいつがハルヒの先回りにやっきになっていたかを、手短に。
考え込む古泉に俺は改めて訊いた。
「やったのはハルヒか、それとも他の奴か。どう思う」
「あるいは、あなたの側の涼宮さんが本当にそんな力を持ち得ているならば、その方がしたのかもしれません」
他に該当者が思いつかないからな。だとしたらハルヒは古泉だけを傍に呼び、長門と朝比奈さん、そして俺をのけ者にしたことになる。自分でいうのもなんだが、ハルヒが俺たちを差し置くほど古泉に執着していたように思えない。無意識のなせるわざなのだろうか。
なぜかむかむかしてきた胸に不快を覚えていると、古泉の笑う声が聞こえた。
「だとすれば、選ばれて光栄、と言うべきでしょうね」
くっく、と喉の奥で笑うような笑い方だった。疑問が顔に出ていたのだろう、古泉が答えた。
「なぜならば、僕は彼女のことが好きだからです」
ずきん、と体のどこかで音がした気がした。
「……正気か?」
喉から出た声は随分とかすれていたような気がする。
「ええ、魅力的な人だと思います」
にこりと笑った古泉からは嘘は感じられなかった。
「ですが、涼宮さんは僕の転校生という属性にしか興味がないのです。時期外れの転校生と言う、ただそれだけの理由です。なんせ普通の高校生なもので。最近では飽きられつつあるようです。SOS団でしたか? そこでのあなたにはどのような属性があったのですか? ないのだとしたら、それは本当に涼宮さんがあなたを気に入ったということでしょう。まあ、その涼宮さんがこちらの涼宮さんと同じ人格だと仮定しての話ですがね」
「今も昔も俺に病院行きを宣告されるような肩書きはない。そしてハルヒの人格は向こうもこっちも大して変わっちゃいないな。ああ、まあお前はご機嫌なハルヒなんてみたことないのかもしれんがな」
気がついたらケンカを売るような言葉が口から出ていた。半八つ当たりだ。しまった、と思ったのだがもう遅い。ハルヒが「遅い!」と怒鳴り込んで来たときは正直ほっとした。せめてもの詫びに古泉に奢ってもらうのは無しにした。
暖房を惜しみつつ外へ出ると、タクシーが止まっていた。ハルヒが呼び止めたらしい。見慣れた黒塗りのタクシーではないがな。ハルヒの命令口調に苦笑しつつ走り出すタクシーの中、別に聞かれて困ることもないのだが、俺たちは顔を突き合わせて作戦会議をしていた。
さて、俺はその作戦のためにひとまず先にタクシーを降り、高校に入った。この世界で古泉はハルヒの財布役らしく、かいがいしくタクシー代を払っていた。
教室から体操着の入った袋をとって戻って来た俺を、ハルヒは満面の笑みで待ち構えていた。あろうことかそのままここで着替え出しそうだったので、公衆トイレがあるからそこで着替えてこい、と俺はハルヒをその場から追い出した。デリカシーのないやつだ。
そしてふと気がつく。古泉と二人きりではないか、気まずい。
「お前も、公衆トイレのほうで着替えてくるか?」
「いえ、構いませんよ。それよりも、」
古泉がす、っと目を細めた。どこか獣が獲物を追いつめるような目に似ていたかも知れない。
「あなたは何がそんなに気に入らないのでしょうね」
「…え?」
とん、と俺の背中が壁に当たった。いつの間にやら古泉は俺の前に周り、退路を塞ぐようにして俺の横に腕をおく。
「それですよ、僕を見る目。涼宮さんに対してはそうでないというのに、僕に対してどうしてそんな視線を向けるのですか?」
どんな視線なんだよ。
「気に入らない、という感じでしょうか。どこかイライラしているようにも見えますよ。そんなにも向こうの僕と今の僕は違いますか」
違う、と言えば違うだろう。少なくとも俺は古泉のこんな冷たい笑みを見たことがない。
「向こうでの僕とあなたの関係がどんなものだったのかは知りませんが、非常に不愉快ですね。八つ当たりも良い所だ」
ずきずきと痛みを訴える場所がある。俺はどうしてこんなにこいつの言葉にショックを受けてるんだ。面と向かってこんな風に言われたことがないからか?
「…ああ、もしかして」
古泉の顔が笑みの形に歪んだ。おかしくて仕方ない、と言った具合に。俺はとっさに耳を塞ぎたくなった。が、それは叶わぬ願いという奴だった。
「あなた、僕のこと好きだったんじゃないですか?」
ずきん、と一層強く胸が痛んだ。
がん、と頭を殴りつけられたような衝撃があって、目の前がぐらぐらした。俺が、古泉を好き? んなバカな。
確かにあいつのことは嫌いじゃない。キスをされたって嫌な気はしなかった。だってあれはあいつも仕方なくやったことだろう。ハルヒがいるから、ハルヒの為に。
ずきん、とまた鈍い音がした。何故だ。なんでこうなる。痛むのは心臓で、同時に息苦しくなる。目頭が熱くなり、目の前がぼやけ出したので慌てて目を瞑った。
なんで俺は今、古泉のことを考えるとこうなるんだ。そして何故、この古泉に言われた言葉が、その表情が、こんなにも突き刺さるのか。
――――俺は古泉のことを親友くらいには思っていたから。
そう思い込んでしまうのは簡単なはずだった。けれど、俺の思考は違う、とそれを否定する。
「んなわけ、ないだろうが!」
間を置いてやっと滑り出した言葉がそれだった。しかし古泉はそれすら無視するように、
「そうですか? ではなぜ、そう言いきれるのですか? あなたにとって、『僕』とはどんな存在だったんですか?」
俺を追い込むように古泉は言う。冷たく嘲笑うような視線が突き刺さる。忌々しいとばかり思っていたあの笑顔が、こんなにも見たいと思ったこと、あるだろうか。
「あいつは、俺の……」
古泉は俺のなんなんだろう。友達? 親友? そんな生温い間柄じゃない。仲間。それも少し違う気がした。確かに俺たちは仲間だが、古泉には古泉の所属すべき場所がある。じゃあ、なんなんだ。運命共同体?
「なん、なんだろう…」
ぽつりと漏れた言葉はそれだった。古泉は俺にとってどんな存在だったんだろう。古泉にとっての俺は? おそらくは、世界の鍵。涼宮ハルヒのご機嫌を取る為の道具。そんな所なんだろうか。
ずきん、とまた胸が痛む。イライラする。なんなんだよこれは。
俺は冷静になるために少しだけ深呼吸をした。少なくとも、古泉に冷たい態度を取られるのは、辛い。それだけは理解している。いつかあいつが穏やかに笑える日がくれば良いとも思う。
あいつのことは嫌いじゃない。キスされたって嫌いにはならなかった。なんでだ?
「認めたらどうなんですか? 好きなんだ、って」
好き、なのだろうか。だとしても、この古泉の前でそれを認めるのだけは嫌だった。
「違う。俺にとって古泉はただの友人だ。お前に俺たちのことをどうこう言う権利なんてない!」
「…そうですか。まあ好きだ、なんて言われても同性なんて気持ち悪いだけですしね」
また古泉は笑っていた。あの顔で、あの表情で。気持ち悪い。ぐるぐるとして、思考は真っ白になりそうだった。
「お待たせー!…って何やってんの? それにジョン、どうしたの? あんた顔色悪いわよ」
ハルヒの元気のいい声が聞こえて来てやっと俺の思考回路ははっきりとしてきた。「いえ、なんでもありませんよ」と古泉は作り笑いをしてみせ、僕も着替えますから、と物陰になるような場所へ移動した。正直助かった、と思う。
あいつと同じ顔をして、どうしてこんなにも中身が違うように感じるのだろうか。いや、多分きっと同じなのだろうとは思う。ハルヒの起こす超常現象に巻き込まれ、機関で働くことがなければ、そして、俺たちと出会うことがなければ、古泉はこんな風な奴になっていたのだろうか。
会いたい、と思う。好きとかどうとかそんなの全部抜きにして、あの笑顔に会いたいと、初めて心の底から思った。
少しして古泉が戻ってくると、そのまま俺たちは運動部のフリをして校内へと忍び込む。靴をどうするかと思ったらハルヒは勝手に上靴を引き出していて、いかにもハルヒらしい、と思うと自然と笑みが溢れた。
「笑ってる場合じゃないでしょ」
そうだった。俺は古泉に向かって谷口の上靴を放ってやる。サイズはそう変わらんだろう。
「どうも」
短く返事を返して古泉は谷口の上靴を借りる。元々履いてたスニーカーは谷口の下駄箱に放り込むように言った。
「案内する、ついて来てくれ」
「ちょい待ち」
二人分の鞄を抱えて行こうとする俺にハルヒの静止がかかる。
「長門さんって宇宙人は文芸部室にいるのね?」
元、だがな。まああいつは多分俺が行くまで待ってるだろうと思う。
「じゃあ先に朝比奈さんって未来人を捕まえにいきましょ。どこに居ると思う?」
俺はしばし考えて、書道部にいるんじゃないかと思い当たった。俺がこっちで会った朝比奈さんは書道の道具を抱えていたからな。
「わかった、こっちだ」
ドアを開けたのはハルヒだった。俺はノックも無しに開けるという無礼を回避するべく気を回すことが出来なかったし、古泉にいたっては半無関心を決め込んでいる。
「朝比奈さんってのはどれ?」
「……はい?」
こっちを見て目を見開いている三人の中で、一際小柄な影が頼りなさそうな声で返事をした。
「なんでしょう…?」
俺はハルヒの肩口から室内を見回した。鶴屋さんはいないらしい。ホッとするべきなのだろうか。
「ホントにあの子? どうみても中学生よ」
俺の耳元で囁くハルヒに、「正真正銘、あの人が朝比奈さんだ。年上のな」と返す。ふぅん、と呟くように言ってから踏み込み、目の前の天使にデタラメなことを言った。
なんですか、それ…と不安そうに言う朝比奈さんを、いいから来る! とハルヒは強引に連れ出す。途端朝比奈さんと目が合って、助けを求められるが…すみません、共犯なんです。
「めちゃ胸デカいわ、この子。気に入ったわ!」
「ひぃゃ! あ、ああああのその!?」
ハルヒは後ろから朝比奈さんの胸を鷲掴みにしていた。いつぞやの場面を思い出すな。
「一応、怪しい者ではないつもりですよ、僕はね」
朝比奈さんと目があったのか、古泉はそう言って肩を竦めた。部外者面しようと朝比奈さんからすればお仲間だろうがな。
「さ、ジョン。残るは長門さんだけよ、案内しなさい!」
「言われるまでもないさ」
ヘタに誰かに見つかる前に、と俺たちは足早にその場をエスケープした。
「よう、長門」
今度はノックしてからドアを開けた。すっかり小動物のようになった長門を驚かせる訳にも行かなかったからだ。
「あ…」と小さな反応を見せた長門は俺が姿を見せるとあからさまに安堵したようだった。
「悪いな、遅くなって」
「大丈夫…え?」
長門は俺の後ろから現れたハルヒを見て驚き、
「え」
そのハルヒに連行される朝比奈さんを見て蒼白になり、
「……」
更にその後ろから現れた古泉を見て絶句した。まあ、普通ならこういう反応だよな。
ハルヒは全員が入ったのを確認するとガチャリと鍵を閉めた。朝比奈さんがそれに過剰に反応する。
「ななな、なんなんですかー?」
いつかのように半泣きである。
「こ、ここ、ど、どこなんですかぁー? なな、なんで、あた、あたし連れて来られたんですかぁ? ど、どうしてかか、鍵を閉めるんですか? い、いったい何を、」
「黙りなさい」
いつかと同じく泣き出しそうな朝比奈さんをハルヒはぴしゃりと一刀両断し、長門を見ると、
「そっちの眼鏡ッ娘が長門さん? よろしく! あたし、涼宮ハルヒ。これは古泉くんで、この胸がでっかくて小さい子は朝比奈さん。で、そいつは知ってるわよね、ジョン・スミスよ」
「ジョン・スミス…?」
長門の反応は正しいだろう。だが俺は肩を竦めて間抜けなニックネームを受け入れた。ジョンでもキョンでも似たようなもんだろう。
「ふーん、ここがそうなの。SOS団かぁ。何もないけどいい部屋ね、色々持ち込み甲斐がありそう」
実際お前はそうしてたさ。何もなかった殺風景な部屋が今じゃごちゃごちゃとしてるし、季節ごとに荷物も変わる。
ハルヒはしばらく部室を眺めていたが、俺の方に振り返った。
「で、これからどうするの?」
「お前な、なんも考えずにここまで来たのかよ」
ハルヒらしいとは思うが、呆れた。
「此処を活動拠点にするのは賛成なんだけど、交通が不便よね。それにあたしと古泉くんは他校生だし…あ、そうだ! 時間を決めて駅前の喫茶店に集合ってのはどう?」
いきなり言われたところで長門も朝比奈さんもさっぱりだろう。思った通り長門は置き人形化しているし、朝比奈さんはオドオドと挙動不審である。古泉も黙っている。
さて、何を言おうか―――――
ピポ。
「ふえっ?」
俺が思い悩んでいると、急にPCの電源がついた。朝比奈さんが驚いて腰を抜かすのがかろうじて見えた。それ以外の神経は全てPCに向かって注がれていた。
古めかしいディスプレイがぱちぱちと音を立てながらうっすらと明るくなっていくのが、長門の眼鏡を通して確認出来た。
それに呼応してバードディスクが回転するシーク音は続かなかった。と、いうことは。
「退いてくれ」
俺はハルヒを押しのけて全速力でディスプレイの正面へ回った。
そこにはいつぞやのように、長門の打ち込んだであろう文字が白く浮かび上がっていた。
ダーググレイのモニタ上、白い文字が踊る。
》これをあなたが読んでいるとき、おそらくわたしはわたしではないだろう
…そうだ。その通りだよ、長門。こいつだって長門だ。でも、お前と同じじゃない。
「何? スイッチも押してないのに、びっくりするじゃないの」
「タイマーでセットされていたのでしょうか。それにしても随分と古い機種ですね。アンティークものですよ」
ハルヒと古泉が背後で交わす会話も、俺には聞こえていなかった。一字一句見逃すまいと、モニタに食いつく。
》このメッセージが表示されているということは、そこにはあなた、わたし、涼宮ハルヒ、朝比奈みくる、古泉一樹が存在しているはず。
まるで俺の読む速度に合わせるように、カーソルは無骨なフォントを刻む。
》それが鍵。あなたは回答を導き出した。
俺じゃないんだ。ハルヒが古泉を伴ってここを訪れてくれたからだ。だから、俺はこうして答えへたどり着けた。
それにしても、数日ぶりだな、長門。ディスプレイの文字を胸の内であの長門の平坦な声で再生する。スクロールは続く。
》これは緊急脱出用プログラム。起動させる場合はEnterkeyを。そうでない場合はそれ以外を選択せよ。起動させた場合、あなたは時空修正の機会を得る。ただし成功の保証は出来ない。また、帰還の保証も出来ない。
脱出用プログラム。これが。この、パソコンが。
》このプログラムが起動するのは一度きり。実行ののち、消去される。非実行が選択された場合、起動せずに消去される。Ready?
そこまでだった。末尾でカーソルが点滅している。
Enterか、それ以外か。
気がつけばハルヒが後ろから覗き込んでいた。
「何これ。なんの暗号? ジョン、やっぱりあたしをからかってるだけなの?」
ハルヒの言葉を無視して俺は長門に向き直った。ポニーテールのハルヒも、嫌味な古泉も、可愛らしい朝比奈さんも眼中にない。
「長門、これに心当たりはないのか?」
「………ない」
「そうか」
やはりこれは、あちらの場所の長門からのメッセージなのだ。俺はもう一度最後の一文を読み直した。
保証は出来ない、というのに一抹の不安を感じないではないが、そこはそれ、長門だ。俺は長門に全幅の信頼を寄せているし、あいつのやることに間違いがあるとも思えない。何度も救ってくれたのは長門だ。あいつを疑うのならば、俺は自分の頭を疑うね。
「ちょっと、ジョン?聞いてるの?」
「少し静かにしてくれ。今考えをまとめてるんだ」
考えるべきことは、別のことだ。俺は背筋を伸ばして深呼吸した。
そう。確かなのは、俺がこの世界を脱出したいということだ。すでに馴染みになったSOS団や、俺の日常にいたはずの連中に会いたいのだ。ここにいる古泉やハルヒや長門や朝比奈さんは、俺の馴染みじゃない。ここには『機関』もなければ情報統合思念体も大人朝比奈さんがくることもない。それは間違っている。
そして俺は、今、偽りでもいいからあの笑顔に会いたい。
決心するにはそれで充分だった。
「ごめんな、長門。これ、返すよ」
俺がポケットから取り出したくしゃくしゃの紙片を、長門はやっとの思いで掴んだ。風もないのに紙片は震えていた。
「…そう」
「だけどな」
俺は大急ぎでいった。
「この数日間楽しかったよ。普通の女の子として暮らすお前達も、嫌味な古泉も新鮮だったさ。お陰で色々と気付けたしな。多分こうならなきゃ、一生自覚しなかったかもしれないことだらけだ」
「それは、どういう、」
俺は古泉に振り返ると言った。
「俺は確かに、お前が好きだよ」
Ready?
選択肢は、最初からO.K.しかないさ。
俺の指はEnterkeyを軽やかに押し込んだ。
その直後。
「うわっ?」
強烈な立ちくらみが俺を遅い、慌ててテーブルに手をつこうとして、視界が反転した。耳鳴り。誰かの声が遠くから聞こえる。目の前が暗くなり、上下の感覚も消え失せた。浮遊する感覚。急流に落ちた、あるいは風に吹かれる木の葉のようにくるくると回っている。俺を呼ぶ声がどんどんと離れる。なんと言っている? ジョン? キョン? それすらも解らない。古泉の声のような気がしたが、違う気もする。暗い。墜ちているのか? どこへ。どこに墜ちようと言うんだ。
混乱する思考。俺の目は開いているのか? 何も見えない。もう何も聞こえない。ただ流されている気配がする。俺の身体はどこだ? 古泉は。ねじ曲がっている。ハルヒ。朝比奈さん。ここは? 俺はどこに行こうとしている? 緊急脱出用プログラム。行き着く先は、どこなんだ。
長門――――。
「う、わ!」
再び声を上げながら俺はくだけそうになった膝をなんとか支え、自分が立っていることに気がついた。
「ここは…」
暗闇の中窓から差し込む僅かな光だけを頼りに部屋を見渡す。長机、パソコン。
「文芸部室だ」
さっきまでの。しかしここに長門はいない。それどころはハルヒも古泉も朝比奈さんもいない。俺一人。更に外は真っ暗だった。室内の様子は先ほどまでとそう変わっていない。少なくともSOS団の部室でないことは確かだ。それよりも。
「暑い…」
伝う汗をブレザーの裾でぬぐう。問題はどこか、ではなく、いつなのか、だ。俺は耐えきれずブレザーを脱ぎ、シャツの袖をまくった。
まるで真夏のようだった。俺は急いで校舎を出ると、日付を確かめるべく手近なコンビニに飛び込んだ。涼しい。レジの近くへ行くと適当に一番手前のスポーツ新聞を大急ぎで広げた。普遍的ラッキーナンバーのゾロ目が目に飛び込む。じゃあ、いつの?
「…そういうことか、長門」
俺は西暦を目にしてようやく長門の意図を知った。
全国一斉七夕デー。
つまり、今日は三年前の七夕だった。
3年前の七夕、何があった? 俺はどうしていた?
今にもぐるぐると回りだしそうな思考をどうにかコントロールし俺は必死になって状況を整理する。3年前の七夕といえば俺は過去へ時間旅行をしたじゃないか。朝比奈さん(大)に言われるままに行動し、中一のハルヒに会い、3年前の長門に会った。
ということは、俺は世界を形作る重要な地点にいるはずだ。何しろあっちの世界でもハルヒの記憶にこの時間の出来事はあったのだから。
そこまで考え、俺は彼女らに会いに行かなければ、と走り出した。コンビニの時計は8時半を示していた。俺の記憶が正しければベンチで目を覚ました俺に対して朝比奈さんは現時刻を「午後9時頃」と言っていたはず。30分も走ればなんとか間に合うはずだ。
あの朝比奈さんなら俺のことも解ってくれる。そうであるはずだ。
あからさまに登場するわけにもいかないため、俺は夜陰に紛れるように公園の壁に沿って歩いていた。
あの時目覚めたベンチの場所を思い描きながら格好のポイントを探す。時間はまさに午後9時を過ぎようとしている。
「あれか…」
ベンチは外灯に照らされていて、それがスポットライトのように二人を浮かび上がらせていた。羨ましいことにその『俺』は朝比奈さんに膝枕されていた。まあ俺もされていたんだが。
しばらくすると『俺』はのっそり起き上がり、朝比奈さんとちょぼちょぼ会話しているらしかったが、すぐに彼女は『俺』にもたれかかり――――、
ガサガサと揺れる繁みから、あのお方が登場した。
如実に思う。俺は確かに3年前の七夕にいる。すべてが記憶にある筋書き通りだった。
呆然とした態度の俺に必要事項をすべて言い終えると未練を感じさせることもなく朝比奈さんは公園の出口へ向かって歩き出した。
そのまま『俺』を眺めているわけにもいかず、俺は腰を浮かせて外回りに公園の出口へと急ぐ。『俺』のことを気にする必要はない。なぜならこの時の『俺』は俺の姿を見ていないからだ。
公園の角を曲がるとその百メートルほど先に彼女は居た。後ろ姿だが間違いない。
「朝比奈さん!」
俺が声を張り上げながら駆け寄ると、ぴたりと彼女の足が止まり、スローモーションを見ているかのようにゆっくりと振り返った。
「こんばんは、キョンくん」
俺が予想していたような台詞はなく、彼女はにこりと笑って続ける。
「あなたとは、お久しぶりですね」
いたずらっ子のように片目を閉じてみせ、俺に微笑みかける朝比奈さん。この笑顔を見るのも五ヶ月ぶりだろうか。
「でも、よかった。ちゃんと会えて。ちょっぴり不安だったんですよー? わたしがどこかでミスをしているかも知れなかったし」
にこりと笑う朝比奈さんは、俺が今からどうするべきなのかを知っているはずだ。この口ぶりなら間違いない。
すべては規定事項、と言った朝比奈さんは俺に色々と説明してくれた。お陰でハルヒの言っていたもう一人のジョン・スミスが俺であることが解ったし、それ以外にも色々と未来のことを少し垣間みることが出来た。禁則事項だったことを話せるようになるまで、彼女も結構頑張ったらしい。
「わたしやキョンくんだけでは時空を元に戻せません。長門さんの助けが必要です」
そう言ったあと、まだ時間があると言って朝比奈さんはSOS団での出来事を懐かしむように話し始めた。
「色々大変だったけど、今ではとても良い想い出です。キョンくんも、そうでしょう?」
穏やかな微笑みと共に彼女は言う。俺はそれを否定する気はさらさらなかった。
「古泉くんのこと、好きだって気がついたんでしょう?」
「…はい」
俺は苦笑しながら頷いた。朝比奈さんは慈しむような笑みを向けていて、少しだけこそばい気がした。
「優しいお姉さんから忠告。自分の気持ちには素直になった方が良いって、言っておいてあげます」
「え?それは、どういう、」
俺の質問には答えず、再び彼女はにこりと笑うと、そろそろ時間です、と言って歩き出した。俺はその後に続いて行くしかない。
どこへ、なんて聞くのは野暮だった。公園から少し離れた住宅街を、そいつは威勢良く歩いていた。
「おい!」
遠目にそいつが振り向くのを確認すると、俺は手をメガホン代わりにして叫んだ。大声を出すということはもう開き直ってしまっている。
「世界を大いに盛り上げるためのジョン・スミスをよろしく!」
そいつはしばらくじっとこちらを見ていたが、やがて怒ったようにまた威勢良く歩き出していった。
今どうにかしなくても北高を尋ねればいつでも俺に会えると思っているのだろう。そう思わせるほど迷いのないさりっぷりだった。俺はその背中に向けて小さく付け加える。
「覚えておいてくれよ、ハルヒ。今日、この日を」
俺がここに存在していたと言う、その証を。
長門のマンションへつくや否や、朝比奈さんはすたすたと長門の部屋へと進んで行く。俺の良そうでは今の朝比奈さんと同じように苦手そうな様子を見せると思ったんだが。
「うーん、そうですね…今この時点での長門さんなら、確かにちょっと苦手です。でもわたしも彼女も良いお友達になりましたから」
「…一応聞いておきますけど、やっぱり腐女子として意気投合して?」
そう聞くと朝比奈さんは苦笑した。だが否定しないということは当たりなんだろう。玄関口で長門の部屋に繋ぐためにテンキーを操作し、ベルマークのついたボタンを押す。ぶつん、とインターホンの接続される音が聞こえたが、後は無言。
「長門、俺だ」
沈黙。
「すまん、ちょっと厄介なことになってな。お前の手を借りたい」
沈黙。
「ええと…そこに俺と朝比奈さんがいるはずだ、時間を止められて客間で…」
がしゃん、とロックが解除される音が聞こえた。
『入って』
玄関を通り抜けてエレベーターに乗り、708号室に向かう。ベルを押す気にはなれず、扉をノックすると、静かに扉が開いた。
「上がって良いか?」
眼鏡をかけた、けれど見慣れた顔にそういうと、僅かに首を引いて頷いた。朝比奈さんを伴って部屋に入り、長門にあらかたのことを説明する。
「状況は理解した。同期は不能だが、再修正は可能。世界を元に戻すためには、今から三年後の十二月十八日へと赴き、時空改変者が当該行為をした直後に再修正プログラムを起動すればよい」
じゃあ、一緒に、と言いかけた俺の言葉は「わたしは行けない」と言う長門の言葉で遮られた。なぜだ?
「彼らを放置できない。エマージェンシーモード」
と、長門は客間に向けて指さした。仕方ない、か。代わりに、と言って長門は時空を修正するための道具を構成し、俺に手渡す。最初は注射器だったのだが、それを固辞すると今度は銃の形に変えた。まあこれならまだ心証は悪く無いだろう。
「…それで、」
犯人は誰なんだ、と、俺は今まで敢えて聞かなかった質問を発した。
朝比奈さんは僅かに息を呑み、長門は淡々と無表情でそいつの名前を告げた。
「長門有希。つまり――――――わたし」
「…来ました」
朝比奈さんの言葉を聞いて、俺ははっとしながらそっちを見た。信じたく無かったが、その姿はやはり俺の知っている長門有希の姿だった。
衝撃の告白を聞いてすぐ、長門は俺たちに時間改変の影響に対する防御壁を注入してくれた。そんな長門に、俺は何も言えなくて申し訳ない気がした。
「…あなたは気にしなくていい。寧ろわたしはこれで良かったと思っている」
なぜだ?
「ヘタに腐女子の妄想に走ってガチホモだらけの世界になるよりはマシな事態だったと思われるから」
「あぁ、それはそうですよね! そうなったら子供も生まれなくなってしまう可能性も大ですし」
笑うべきなんだろうか、これ。そしてそういう問題では無い気がするんだが。
ただ長門なりに気遣ってくれているのは伝わって来たので、ありがとう、とお礼だけ告げて俺たちは北高へと来ていた。時間軸は、今年の十二月十八日。
その長門は不意に北高の校門前でとまり、ゆっくりと手を上げたかと思うと、空気を掴むかのように手を動かした。朝比奈さんいわく、あれが時間改変をしている動きらしい。
しばらくして長門は手をおろし、俺たちの方を振り返った。見つかったのか、と思ったのだが、今の長門には何の力もないため、安全らしい。俺は無造作に立ち上がると、長門へ近づいた。
「…よお、俺だ。また会ったな」
「…なぜ、あなたが、ここに…」
「お前こそ、自分がどうしてここにいるのか解ってるのか?」
「…散歩」
ほう、こんな寒い時期の早朝にか。勤勉少女でもこんな時間に来たりはしないだろう。学校が始まるまですくなくともまだ3時間はある。
そうじゃないだろう、長門。わかってる、お前はきっと変化を求めたくなったんじゃないか、って。無表情でも無感動でもなくなって、少しでも人間の感情を得たことで引き起こしたバグなんだろう。自分でもどうしていいか解らなくなったんだろう? お前のせいじゃないさ。
少なくとも俺は感謝したいよ。そんな状況になっても、俺に最後の選択肢を選ぶ権利を与えてくれたお前に。
「だから俺は、選ぶよ。俺は俺の知ってる世界の、あの場所が好きなんだ」
楽しかったんだ。嫌じゃなかったんだ。あれだけ文句を言いながら、お前らに巻き込まれることも、腐女子の妄想に付き合うことも。あのままのお前達が、俺は好きだ。あの空間が、世界が、俺にとってのあるべき場所なんだよ。
「お前は、お前のままで良いんだ。だから、」
「キョンくん」
朝比奈さんが静かに首を振る。この長門には何を言っても無駄だと言いたいんだろう。仕方ない。本当なら使いたく無かったんだが。
銃の形をしたそれを取り出すと、明らかに長門が怯えた。ゴメンな、長門。お前の苦しみを理解してやれなくて。
「元に戻ったら、また図書館に行こう。ハルヒたちとまた腐女子妄想で騒げば良い。とりあえずまずはクリパで鍋でも食って、ばか騒ぎしよう。そしたら――――」
「キョンくん、危な…! きゃあっ!」
朝比奈さんが叫ぶと同時に、誰かが俺にぶつかって来た。同時に脇腹に突き刺さる冷たい異物。長い髪がふわりと翻り、青いスカートが揺れた。お前は、
「あさ、くら」
「ふふ」
ずる、と異物が引き抜かれる。俺の腹に突き刺したナイフを持って、朝倉は笑う。それで支えを失った俺は、どさりと地面に転がった。だくだくと血が溢れ出ており、もはや痛いというより、熱い。
「朝倉、さん…」
長門は顔を真っ青にさせて震えていた。
「ええ、長門さん、わたしはちゃんとここにいるわ。あなたに危害を加えさせたりなんかしない。そのためにわたしは存在しているんだから。あなたがそう望んだのよ?」
あくまでも穏やかな笑みを浮かべたまま、朝倉はそう言う。フォン、と音を立てて振られたナイフから、赤い液体が飛び散った。俺の血だ。
「トドメを刺してあげる。今のままじゃ痛いでしょう? でも、ゆっくり味わったら良いわ。それはあなたが最後に味わう感覚なんだから」
朝倉は俺に馬乗りになると心臓に狙いを定めてナイフを振り上げる。脇腹の傷ですでに致命傷なんじゃないか、と朦朧とする意識の中で思う。逆光になっていても、朝倉が笑っているのがわかった。
「じゃあ、死んで」
いつぞやの放課後を思い出させる台詞とともにナイフが振り降ろされ、それはまっすぐに俺の心臓を貫く。
はず、だった。
「ッ誰!?」
閃光のように伸びた手の主を、俺と朝倉の視線が追う。ショートカットで、北高の生徒。眼鏡をしていないことくらいしかわからない。素手でナイフを掴んで、朝倉をしずかに見つめている。
「なぜ、あなたが邪魔をするの!?」
明らかに狼狽した口調の朝倉は、俺から離れてナイフを止めた人物に叫んでいるようだった。すぐ近くで朝比奈さんの声が聞こえる。
「ごめん、ごめんねキョンくん、わたし、知ってたのに…!」
「キョンくん! キョン、く…! 駄目、駄目だよぅ!」
俺も死にかけでヤバいのだろうか。朝比奈さんが二人いるように見える。走馬灯だとしたらかなりやばい部類だ。辞世の句を用意しなかったことが悔やまれるな。人生五十年どころかたったの十六年だ。
ふと、頭上に影が出来た。意識もぼやけて来た俺はそれが何だか確認する余裕もなく、どこかで聞いたことがあるような声の人物は言った。
「すまねえな。わけあって助けることはできなかったんだ。だが気にするな、俺も痛かったさ。まあ後のことは俺たちがなんとかする。いや、どうにかなることはもう解ってるんだ。お前にもすぐ解る。今は寝てろ」
何を誰が言っているのか、どうなって何がなんとかなるのか、朝倉や長門や二人いる朝比奈さんや制服の違うハルヒや、優しく微笑む古泉の姿ごちゃまぜになって、
俺の意識が消失した。
しゃりしゃり。耳に涼しげな音が届く。
闇の中、浮上しつつある意識の端っこで、俺はぼんやりと考えていた。
夢だったのかもしれない。でも、確かに俺は覚えているのだ。あの世界で出会ったやつらを、起こった出来事を。半年近く前に古泉と二人体験した、あの閉鎖空間での記憶のように。
俺が目を開けたとき、最初に思ったのはそんなことだった。
白い天井が見える。俺の部屋ではないことは確かで、朝か夕方か、透明感のあるオレンジ色が白い壁を彩っていた。
ガタン、と小さな物音がした。なんだ? と思ったのもつかの間。
「おや、やっとお目覚めですか。ずいぶん深い眠りでしたね」
声の主は俺のすぐ傍にいた。椅子に座ってリンゴをするすると剥いている。
「お早うございます、と言うべきでしょうか。夕方ですけど」
ずっと見たかった古泉一樹の穏やかな微笑がそこにあった。
みるみるうちに古泉はリンゴを丸裸にすると皿に載せ、紙袋からもうひとつ取り出すと再び剥きはじめる。
「…古泉」
「はい」
なんでしょう、とポーカーフェイスで言ってみせる男に、俺は言わないでおいてやろうかと思ったことを言ってやった。
「リンゴを剥きすぎだ。ついでに言えばお前は平静を装ったつもりだろうが、声が震えてるんだよ」
俺が指摘すると、古泉が息を呑む。次の瞬間には盛大な溜め息を吐き出していた。
「…あなたには、敵いませんね。ええ、もの凄く動揺しましたよ、何しろあなたはこれといった外傷もないのに3日も眠り続けたのですから」
3日?
「今はいつだ」
「最初の質問がそれですか? まるで自分の状況を把握しているみたいですね。…十二月二十一日の午後五時過ぎですよ」
「ここは?」
「私立の総合病院のとある個室です」
我が家にそんな財源があったとは思えないくらい立派な一人部屋だった。
「僕の叔父の知り合いがここの理事長で、特別に便宜を図ってくれた――――と言うことになっています」
「『機関』か」
「ええ。一年くらいは格安で寝泊まりできますよ。とは言え3日で済んで本当に安堵しましたよ」
上から散々お小言を貰いましたし、僕も本当に心配させられたんですよ、という古泉の顔はホントに安堵していて、ああ、随分と心配をかけたんだな、と思う。
「僕としてはあれだけ頭を打ったんですから、あなたが記憶喪失になってやしないかと心配なのですが」
「頭を打った?」
そういえば、特に外傷も、と言っていた。どういうことだ。俺は腹の傷で出血多量とかで運ばれたんじゃ?
恐る恐る病院服をめくり、右脇腹に触れてみた。何もない。つるりとした肌の感触とぬるい体温があるだけだった。
「…もしかして、覚えてないんですか? あなたはあの日、階段から盛大に転げ落ちたんですよ」
「何だって?」
どういうことだろう。俺は古泉に詳しく、と詳細を聞いた。
十二月十八日。昼過ぎにクリパのための準備で買い出しに行くことになって階段を下りていたところ、いきなり最後尾にいた俺が頭から転げ落ち、後頭部を踊り場にガンッ!とぶつけたらしい。少なくとも古泉の記憶ではそうなっているのだ。
「涼宮さんの証言曰く、あなたが転げ落ちたあとで、階段から走り去る人物がいたそうです。あなたなら何か解るかと思ったのですが…」
覚えていない。ただ単なる俺の不注意が招いた事故だろう。そう言っておくのが良い気がした。
「見舞いはお前だけか?」
「ええ。涼宮さんのご指名で。皆さんも代わる代わる、あなたをお見舞いにいらっしゃってましたよ。もうそろそろ…」
古泉がそう言った途端、がらりとドアが開いた。そしてそこから顔を出した人物が、驚愕に目を見開く。
「…よぉ、心配かけたらしいな」
「…あ、」
「あったりまえじゃないのよこのバカ!!」
えーっと、一応まだ俺は重病人に認定されてていいんじゃないだろうか、と思うのだが。大声が耳と頭に痛い。
「起きるなら起きるってちゃんと予告してから起きなさいよね!そうしたら古泉くんにキスさせて運命的なシーンをセッティングしてあげたのに!」
怒る所が違わないか、それ。そしてハルヒの後ろにいた人物は、驚きのあまり花束を床に落としていた。
「きょ、キョンくん…!よ、よかったぁ…っ」
ぼろぼろと涙を流し、朝比奈さんはその場に泣き崩れる。ああ、泣かないで下さい。すみません、心配かけて。
「い、いんです…! キョンくんが、無事だったなら、それで…っ…いいん、です…っ」
朝比奈さんは泣きながら嬉しそうに笑ってみせる。
「古泉も、心配かけたな。帰ったらちゃんと寝ろよ」
「…! はい」
敵いませんね、と古泉が苦笑した。伊達に観察眼を鍛えてないわけじゃないんだ。寝不足なことくらい見て取れる。でっかいクマひっつけてりゃそりゃあな。どうせお前が四六時中俺の面倒を見てたんだろう?
「いい!? とりあえずキョンはしばらくあたしの命令を聞いてもらうんだからね! 拒否権はないわよっ」
「ああ、わかってるさ」
ハルヒの目も赤くなっていた。心配かけたんだ、それくらいはまあ、いいさ。
検査やらなんやらを受け、とりあえずあと一日入院することになった日の夜。まだ一度も病室を訪れていなかったやつが現れた。
「すべての責任はわたしにある」
極めて平坦な声が俺に語りかけた。
「わたしの処分が検討されている」
「…なんだって?」
俺は頭を持ち上げた。
「誰が」
「情報統合思念体」
「くそったれと言ってやれ」
俺が吐き捨てるようにいうと、長門が僅か二ミリほど首を傾けた。俺は長門に手を伸ばし、白い手に触れる。
「お前がなんと思っていようと、俺はお前に感謝してる。じゃないと認められなかったことや、絶対に気付けなかったことがある。お前の親玉に伝えてくれ」
俺は一度だけ深呼吸をして、言った。
「長門が居なくなったり消えたりすることがあれば、いいか? 俺はためらいもなくハルヒに告げてやる。俺が『ジョン・スミス』だって。俺自身になんの力がなくとも、ハルヒを焚き付けて暴れ回ってお前を取り戻すくらいはできる」
『ジョン・スミス』が有効な手だということは今回の事件で立証済みである。
「それこそハルヒと一緒になって今度こそ世界を作り替えてやる。お前はいても統合思念体なんて奴はどこにも居ない世界にな。ざまあみやがれ」
観察対象? 時間の歪み? 神様? んなもん知るか。俺には関係ないね。
気がつくと長門の手を強く握りしめていたのだが、長門は何も言わなかった。かわりに、
「伝える」
平坦な声で呟くように言った。
「ありがとう」
さて、結局ハルヒの命令うんぬんがなんだったのかというと。
「みくるちゃんもいいと思ったけど、あんたでも充分OKね! 写真撮っときましょ!」
「キョンくん可愛いです〜」
「…似合っている」
「うれしくねーよどちくしょう!」
「いやー、ですがホントにお似合いですよ?」
「トナカイに言われたかねーわ!」
ということで、俺はなぜかサンタ服を着せられていた。ちなみにロンスカ仕様。女物。サイズ的にはLL?
トナカイ、とはいったものの、古泉は角をつけているだけだ。ちくしょう、お前だけそんなんかよ。
「僕は特に罰を受ける必要もないですから」
「ま、あたしたちへのクリスマスプレゼントの変わりとでも思うのね!」
わいわい騒ぐ女子を眺めつつ、俺は溜め息をついた。色々と懸案事項が多過ぎる。
ただまあ、古泉が好きだとかそう言うのは、今は考えないでおこうと思う。とりあえず帰って来れただけで、今は良い。こいつの笑顔が見れているだけで、良いんだ。
それよりも今俺がすべきなのは。
今までバカにしていて御免なさいと白ヒゲのじいさんに謝ることなんだろうな。
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