ノスタルジア〜永遠〜












「――――――――…」

通り過ぎる喧噪の中、僕は一点を見つめ続けていた。
――――いや、違う。見ているんじゃなく、瞳を、反らせないだけだ。

刻まれた傷跡。二人の名前。遠い、あの日。

僕はそっとそれに触れ、静かに、祈るように目を伏せた。

























僕と彼が出会ったのは、二年前の五月のことだった。

「古泉一樹です、よろしく」

転校生。一年九組。理系クラス。集まる好奇の視線。自分の見目が良い方なのは自覚しているが、正直鬱陶しいといえる。
集中砲火のように浴びせられる質問も、女子の視線も、どうでもいい。
同世代の少年少女と付き合うには、自分の精神が成熟しきっているのも知っている。何より、大人ばかりの環境で育ったからだろう。
何事も無くこのまま過ごし、卒業出来ればそれでいい。良好な人間関係を築こうなど、思わない。
けれど、その出逢いは、唐突に僕に訪れたのだ。

「転校生って、どいつ?」

ドアが開く大きな音と共に現れたのは、一人の少女だった。黄色のリボンをした、活発そうな少女。また煩そうなのが、と思っていたのだが。

「あ、そう。こいつ? ねえアンタ、なんでまたこんな時期に転校して来たの?理由は?」

その少女はこちらに答える暇も与えず、次々と質問を繰り出した。前の学校は?得意なことは?どっか部活に入ろうとか思ってる?

「えぇと…どうしてまた、そんな質問を?」
「アンタにあたしたちの集まりに参加してもらおうと思ってるから。まあいいわ、一緒に来なさい!」

強引な態度で彼女は僕の腕を掴むと、歩き出した。厄介なことになるかも知れない。そう思ったが、不思議と嫌ではなかった。

「へいおまち!転校生入荷したわよ!」

そう言って彼女が僕を連れて来たのは、文芸部室、と書かれた部屋だった。扉の前には『SOS団』と書いてあったが、どんな集まりなのだろうか。

「本日九組にやって来た即戦力の転校生。その名も、」
「古泉一樹です…よろしく」

そう言いながら見回せば、雑多に物が置かれた小さな部屋に、三人の人間。二人は女で、一人は男。

「ここ、SOS団。団長あたし、涼宮ハルヒ。んで、この子がみくるちゃん、そっちが有希で、これがキョン」

彼女の紹介に続いてそれぞれがフルネームを語る。キョン、と呼ばれた彼だけは、紹介する前に涼宮さんの一言で遮られてしまったが。

「OK?じゃみんっな、仲良くしましょう!」

にぱっ、と笑って彼女は振り向くが、疑問がある。

「入るのは別に構いませんが…」

そういうとキョンと呼ばれた彼は驚いていた。

「ここは何をするところなんですか?」
「よくぞ聞いてくれました!」

再び涼宮さんは満面の笑みになる。

「SOS団の活動内容、それは…この世のあらゆる不思議を探求することよ!」

感想としては、なんというか、面白そう、ではあった。僕としては段々毎日はつまらない物と化しており、不思議を探求する、というのは中々魅力的に思えた。

「…いいでしょう、入ります。今後とも、どうぞよろしく」

さっすが古泉くん!と涼宮さんに背中を叩かれながら、僕は彼の前に立った。メンバーの中では二人だけの男だ。色々と世話になることもあるだろう。

「古泉です。転校して来たばかりですから、至らない所も多いと思います。どうぞよろしく」

僕がそう言って握手を求めると、彼は怪訝そうな顔をしながら一応握り返した。

「じゃ、第一回ミーティングを始めるわよ!明日は休みだから、早速第一回市内探検ツアーと行きましょう!」

そう涼宮さんが宣言して、僕たちは明日、学校近くの駅前に集まることになった。

「お前も災難だな」

長い坂を下る途中、隣に並びながら彼が言う。涼宮さんたちはその前を歩いており、仲が良さそうに騒いでいる。

「そうですか? 面白い、と思いますよ」

一応本心ではあったのだが、僕のその返答に彼は短く溜息を吐いた。

「ならもっと面白そうな顔をしろよ、少しも楽しそうじゃないぜ、お前」
「――――――…」

驚いた。僕に対して何の興味も無いどころか、あまり良く思ってなさそうな節さえあったというのに。

「…これは失礼を。ですが本当に、僕は面白いとは思っているんですよ」

ただ少し、笑い方を忘れているかも知れない。いつも貼付けたような笑みばかり浮かべているから。

「…ま、別にどうでもいいけどな」

本当に興味のなさそうな、けれどどこか照れた様子で彼は言った。




翌日集まった場所で、僕たちはクジを引いた。二手に分かれて市内を探索するらしい。クジの結果は、女子組と男子組。

「いい、遊びじゃないんだからね、しっかり探しなさいよ!」
「わかってるって」

どこかうんざりしたように彼は言った。聞けば、涼宮さんとはこの学校で知り合ったばかりだというが、幼馴染みのように仲が良い。うらやましいことだ。

「さて、どこに行く?」
「生憎僕はまだこの街に詳しくありませんから…あなたのお好きな場所で良いですよ」

それに知っていたとしても、同年代と行くような場所など思いつけない。

「うーん…まあ適当にぶらぶらすりゃいいか」

彼の言葉に従い、僕たちは河川敷をぶらぶらと歩いていた。学校のことや、日常のくだらない話。そこで気付いたのは、案外彼は僕に興味を持っているということだった。探究心が強いのかも知れない。
前の場所はどんな所だったんだ、とか、なんでまたこの活動に参加しようと思ったんだ、など、彼は僕に質問を繰り返した。時々答える言い回しが複雑だったのか、彼はしきりにもっと解りやすく言え、や、簡潔に言え、とぼやいていた。

「ふーん、お前も結構苦労してんだな」
「それほどでもないと思いますよ」
「けど同級生にも敬語使っちまうくらいには、大人と過ごしてる時間が多いんだろ」

また、だ。ドキリとした。彼はどうしてこんなにも鋭いのか。

「ええ…まあ、そうですね。もう癖のような物ですから」
「その作り笑いもか?」

痛い所を突く、と思った。

「あ…気に触ったなら、悪い」
「いえ、構いません。本当のことですし」

言いながら僕は苦笑した。内心は結構どうようしているのだが、ポーカーフェイスも癖になってしまっている。

「そうですね…この笑い方も、もう癖になってますから」
「そういうもんか」

彼は努めて明るく振る舞おうとしているようだったが、明らかに失言だったと後悔しているようだった。

「あまり気になさらないで下さい。驚きはしましたが、傷付いているわけではないですし」
「そ、か…でも、悪かったな」

少しだけ彼が安心したように笑ったので、僕はほっとした。
そう簡単に不思議が見つかる訳も無く、タイムオーバーとなり、僕たちは解散した。また、学校で。少しだけその響きを嬉しく思った。



そうして僕たちは数ヶ月を過ごした。月一回は必ず市内探索をし、またいつぞやは草野球の試合に出たりもした。転校当初には思いもしなかったほど、僕は高校生という生活を満喫していた。
その間に、彼とも随分親しくなった。さり気ない優しさや、気遣いに触れる度、惹かれていった。そう、僕は。

彼に、恋をしていた。

いわゆる初恋、という物かも知れない。今までこんな感情を感じたことも無かったからだ。大人ばかりの環境で、親しくするような人もいなかった。つまり、僕とこれほど関わりを持ってくれたのは、彼が初めてだった。
どうして彼なのだろうと、考えたこともある。涼宮さんも、朝比奈さんも、長門さんも、僕と言う存在を見て、関わりを持ってくれているのは同じなのに。
けれどきっかけは、おそらく彼の最初の一言だ。僕の笑顔を見て、一体何人が作り笑いだと気がつくだろう。そして、何人がそれを指摘するだろう。



言えるはずが無い。そんな気持ちを抱えたまま、僕たちは高校一年の夏を迎えていた。











夏休み、部活動と称して僕たちは僕の知り合いの別荘へと合宿に来ていた。やることと言えば、海で遊び、花火をし、星を観測する。普通に遊んでいるのと何ら変わりなかった。
けれど不思議と、普通のことをするのに飽きるということはなく、皆がそれぞれに楽しんでいた。涼宮さんは海ではしゃぎ、朝比奈さんは花火に怯え、長門さんはスイカを一人で半玉食べ、皆を驚かせていた。妹さんを連れて参加した彼も、昼間は海で遊んだりしつつ、僕とゲームをして夜更かしをする毎日だ。
永遠に続けば良い。そう思いながらも、それが実現しはしないことを知っている。時間は戻らないし、止まらない。
僕は涼宮さんと彼の距離が近づくにつれ、それを恨めしく見ているしかない。僕は男で、彼は男だ。どうして好きになったのが彼だったのだろうか。何度も自分に自問した。
けれど答えは変わること無く、心は彼を欲している。思いを告げた所で、彼が応えてくれる訳が無い。築いてきた友情さえも、失ってしまうのが怖い。告げてしまえば、多分こうして目の前で笑ってくれる笑顔も、ない。

「…どうしたんだ、元気ないじゃないか、古泉」
「っ…」

星空を眺め考えに耽っていた僕に、声がかかる。いつからそこにいたんだろうか。

「ついさっきだよ。最近はまともな顔するようになったと思ってたんだがな。本当にどうしたんだ?」

彼は、優しい。その優しさが僕には残酷なほど突き刺さるというのに。

「いえ、なんでもありませんよ」

笑顔で答えると、彼は大きく溜息をついた。今更お前の作り笑いが解らないと思ってるのか、と。

「僕だって感傷に浸りたいときもあります。あなたには関係がないことですから、ご心配なさらないで下さい」

やんわりと突き放した物言いに、彼の顔が歪んだ。どうしてそんな、傷付いたような顔をするのだろう。彼に取って僕はただの友人であり、部活仲間。そこまで心配されるような間柄ではないはずだ。

「…俺に、」
「…え?」
「俺に心配されるのが嫌いか」

何かを堪えているような表情だった。どうして、なぜ。そればかりが頭を駆け巡る。

「これでも俺は…お前の、友人、でいたつもりだ。なのにお前はそんな風にも思ってくれなかったんだな」
「っちが、…」

違う、違うんです、友人どころか、もっと。言ってしまいたかった。だけど、言えない。結局僕の口から滑り出したのは、酷い言葉だった。

「、……同情紛いの友情で関わりを持とうとしているなら、止めて下さい。迷惑だ」
「っ…!」

彼は信じられない、という顔で僕を見ると走り去っていった。…最低、だ。けれどもう、期待するのは嫌だった。これで彼が離れていくのなら、諦めがつく。きっと。
もうこれ以上近づいて欲しくなかった。このままではきっと勘違いしてしまう。彼の傍にいる権利があるのだと。彼は僕を友人としてしか見ていない。解りきっているからこそ、期待したくない。自分が傷付くのを防ぐ為に、彼を傷つけた。浅ましい自己防衛。

「っ…」

ガン、とテラスの壁を殴った。痛い。だけど僕の一言で、彼がどれだけ傷付いたのだろう。優しい彼だから、もっと痛かったはずだし、自分で傷を広げてしまっているかも知れない。最低、だ。
けれど謝ることすら出来ず、涼宮さんたちに不審に思われながら、僕たちの間には距離が開き始めていた。
夏休みが終わり、普通に学校に行くようになって部室で会う。短い挨拶を交わすだけで、今までのようにボードゲームもしない。僕は長門さんと同じように本を読みあさり、彼はインターネットに耽っている。

「…あーーもうっ!空気が悪いったら無いわ!一体なんなのよあんたたちっ!」

SOS団は仲良く、が基本でしょ! と、ついに焦れた涼宮さんが怒り出した。

「別になんでもねぇよ」
「僕が悪いんですよ、すみません」

と、曖昧に終わらせようとする僕たちが限界だったのか、涼宮さんに部室から放り出された。

「いい、ちゃんっと仲直りするまで、戻って来たら駄目だからね!いいわねっ!?」

目の前で勢い良く締められたドアに、僕たちは連れ立って屋上に向かうしか無かった。流石に廊下では離せないし、教室に行く気にも起きない。人が来ない場所となると、自然とそちらへ足が向いた。

「この前はすみませんでした、少々取り乱してしまって。ちょっと気が立っていたものですから」

決して僕の方を見ようとしない彼に向かって、笑顔で嘘を吐き出す。半分は真実だが、半分は嘘だ。
これで、表面だけでも元の友人に戻れるなら、良い。彼の沈んだ顔をこれ以上見るのは、辛かった。

「…なあ古泉」
「はい」
「同情紛いの友情なら、って言ったよな」

淡々と、彼は言葉を紡ぐ。少なくとも平面上はそう見えた。

「…ええ、すみません、あれは自分でも言い過ぎだと、「そうじゃない、そうじゃなくて」

僕の謝罪のような弁解の言葉を、彼は遮った。まだ、振り向かない。

「考えた。あれから。いつも作り笑いを浮かべていなくちゃなんない場所にいるお前に、俺は同情してたのか、って」
「、…」

かけるべき言葉が見つからなかった。正直彼がこちらを見ていなくて良かったと思う。多分僕は、酷い顔をしている。

「確かに、そんな部分もあったかもしれない。だけどな、古泉、俺はお前の友達でいたいと思ったのは、そうすることでお前がちゃんと笑えると思ったからだ」
「え、…」
「お前に作り笑いして欲しくなかったんだ。俺たちの…俺の、前で」

ドクン、と鼓動が聞こえたような気がした。

「優越感、だと思ってたんだ、確かにそれもあるから。だけどな、そうじゃなくて、俺は、お前のことが…」
「言わないで下さい!」

耳を塞いでしまいたいと思った。これは僕が都合のいい夢を見ているに違いない。
驚いたように振り向いた彼の顔は、見えなかった。

「っ…そ、っか、そうだよな。悪い、忘れてくれ。 …とりあえず俺はもう、気にしてないから、今まで通り普通にしてくれよ。じゃあ、俺は先に戻ってるから」

通り過ぎようとする彼の腕を掴み、僕は後ろから彼を抱き締めた。

「は、なせ、よっ…!」
「嫌です」

僕は腕に更に力を込めた。彼が逃れそうと暴れるのが解る。だけど、離したくなかった。

「っ…離せ、離せ、離せ離せ離せよっ!」

暴れた拍子に頬に爪が当たり、傷がついた。怯んだ隙に彼は僕の腕から逃げたが、僕についた傷を見て蒼白になっている。

「良いんです、このくらい。あなたが負った傷より浅い。痛くもない」

僕がそういって笑うと、彼はそっと傷に触れた。白い指が、ほんのり紅く染まる。青いのを通り越して白くなった顔から、ぽろぽろと水滴が落ちる。 あぁ、綺麗だ。場違いにもそんなことを思う。

「っ…バカ、だろ…痛くない訳、ない、っ…」
「だけど、あなたに比べたら、痛くもなんとも無いんです。ごめんなさい、僕の身勝手であなたを傷つけた」
「あや、まる…なっ」

止まらない嗚咽に詰まりながら、彼はまたそっと傷をなぞる。

「好き、です。あなたが」

彼がはっ、と顔を上げた。今の彼に、僕はどう映るのだろう。それでも、今までで一番の笑顔で笑えている気がした。

「好きです。好きです、好きです、好きです好きです好きです好きです」

もうそれしか出て来なかった。言いながら、ぎゅっと彼を抱き締める。
彼は僕の顔を両手で掴むと言った。「泣くな」、ポタリ、と彼の顔に水滴が落ちた。

「…俺も、好きだ」

止まらない水滴を顔に受けながら、彼が笑った。泣き笑い。また、水滴が落ちていく。混ざり合って、落ちる。







初めて交わしたキスは、塩の味がした。


















鮮やかな秋晴れの休日、僕はいつもの集合場所へ来ていた。SOS団の集まりではない。今日は彼と二人だけ。彼は地元というのを嫌がったのだが、それでも僕が押し切ると、渋々頷いてくれた。
駅に向かえば、改札の出口付近で彼が待っていた。いつも遅いのに、めずらしい。

「よ、遅かったな」
「珍しいですね、あなたがこんなに早いなんて」
「驚いたろ?」

悪戯が成功した子どものように笑う彼。はしゃいでいるのは僕だけじゃないんだって、自惚れても良いんだろうか。

「今日は行きたい所があるんです。良いですか?」
「良いぜ。…ちょ、うわ…っ」

彼の答えを聞くなり僕は彼の手を引いて歩き出した。少しでも長く、一緒にいたくて。

「…ったく、はしゃぎすぎだろ」
「そう、ですか?」

自分でも少しはそう思うが、彼に呆れられるほどはしゃいでいるだろうか。

「ま、良いけどな」

そう言って隣に並ぶ彼。いつもなら振り払われるだろう手も、今日はそのまま。それだけで嬉しくなる。
無気力で人生を諦めていた僕は、彼に出会って変われた。僕を変えたのは、まぎれもなく、彼一人だけ。

「どこ行くんだ?」
「映画館とか、どうですか?」

その時僕が選んだのは、そろそろ上映が終わるだろう、流行の恋愛映画。「男二人でこれかよ」、なんて彼は言っていたけれど、それでも最終的には彼の方がのめり込んでいたんじゃないだろうか。

「あー…なんかホント俺情けない。泣き過ぎだろ」
「そうですか? でも僕も原作を読んだときは凄く泣きました。あの方の本は凄く好きなんですよ」
「へー、原作も気になる。今度貸してくれよ」
「いいですよ。あ、喉が渇いてませんか?何か買って来ますね」
「あ、良いよ、自分の分くらいは…」

その時、ひらりと一枚の紙が彼の財布から落ちた。何故か彼は慌てている。どうしたのかと拾ってみれば、先ほどの映画のチケット。

「いやあの、別に深い意味はなくてだな…、」
「無いんですか?深い意味」
「う…あ、る…けど。 女々しいだろっ!」

照れ隠しに怒鳴ってみせるけれど、僕には解っている。にっこりと笑うと、僕も財布から同じものを取り出してみせた。ますます赤くなる彼。

「また一緒に来ましょう。来年も、その先も」
「…ああ」

ぶっきらぼうに言ったけれど、嬉しそうに笑っていたことは、ちゃんと知っている。
外に出て僕は嬉しさついでにワガママを言ってみることにした。

「二人の初デート記念をどこかに記しませんか?」
「は!?お前、器物損害だろ!」
「良いじゃありませんか、どこのカップルでも結構やることじゃありません?」
「…お前の常識ってどっかずれてると思うんだが、俺は」

彼が頭を抱えて溜息をついた。調子に乗りすぎただろうか。

「…だめ、ですか?」
「…………ったく、仕方ないな。良いぜ、だけど目立たない所にな」

渋々、と言った顔で頷いた彼。僕が手近な柱に名前を刻むことを提案すると、それでいい、と彼も了承した。
その辺りで拾った石で、二人の名前を刻む。僕は「一樹」。彼は本名を書いて冷やかされるのが嫌なのか、「キョン」と書いた。けれどこんな名前滅多にないだろうから、ますますバレる気がする、とは言わないでおいた。









次の休日は、シーズンも過ぎて人が少ないだろう海に行った。電車の中では、イヤホンをひとつずつ分け合い、この前の映画の曲を聴いていた。電車を降りる頃にはお互いに鼻歌を歌っていて、顔を見合わせて笑った。
海は静かで人もいなく、まるで僕と彼だけが世界に取り残されたように錯覚した。

「あ、海の音がする」
「え?」
「知らないのか?ほら、こうやって貝殻に耳を当てて…」

潮に似た音が、貝殻からした。こんなことも知らないのか、と言いたげな彼の視線に、苦笑する。

「子どもらしい遊びは、あまりしたこと無いんですよ」
「…そっか。じゃあ、砂で城作ったりとかも?」
「ないですね」
「じゃあやってみるか」

にっ、と子どものように笑う彼に続いて、砂で山を作る。

「まあまずは簡単に山作ってからだな。古泉、水!ちゃんと固めとかないと崩れるんだ」
「固める?」
「真ん中にトンネル掘るんだよ。俺たちの腕の長さなら…結構でかくても平気そうだしな」

男二人で、しかも秋の海で何をしているんだ、と思わないことも無かったが、楽しかった。トンネルが貫通して二人の指が触れた時には、中々感動を覚えるほどで、子どもの遊びもバカに出来ないと思ったほどだ。
砂に塗れてどろどろになって、また笑った。僕と彼の傍には、いつだって笑いが溢れていた。
春には花見を、夏には海へ、秋には月見で、冬は雪遊び。子どものように、いつだってはしゃぎまわっていた。時には一人暮らしの僕の部屋に彼が訪れたり、僕が彼の家へ遊びに行ったりもした。SOS団の活動も、学校も、とても楽しく思えるようになり、僕は彼に感謝した。僕の世界の全ては、彼のお陰で色づいたと言っても過言ではないほどに。


けれど、僕たちの別れのときは刻々と近づいていた。


一年が過ぎ、二年の終わり。僕たちの目の前には、進路問題が掲げられていた。
進路。決まっている。僕に許されたのは、決められたレールの上だけの人生。逆らうことは許されない。

「古泉、お前はどこ進学するんだ?」
「まあ適当に、と考えていますよ」
「うっわ頭の違うやつは言うね、俺なんか進学も危ういっつーの」

嘘をついた。僕の選択肢はただ1つ。家が示す進路だけだ。進路調査の紙も、もう向こうから出されているに違いない。
彼らは僕に逆らうことを決して許さない。そうして僕はまたずるずると冷たい世界に引きずられていく。

嫌だ。もう、あの暗い場所は。

「…古泉?」

僕が黙り込んだのを不審に思ったのか、彼は僕の顔を覗き込む。いえ、なんでもないんです、と癖のように言った後、顔を顰めた彼に、またやってしまった、と思った。

「だから、俺の前で作り笑いすんなって言ってるだろうが」
「すみません、癖になってしまって…」

直そう、とは思うのだが、それでも毎日嫌でも作り笑いを浮かべていると、自然とデフォルトがこの表情になってしまう。

「ま、作り笑いのまま苦笑いしてみせるとか、器用だとは思うけどな」
「でもそれをいうとあなたもよく顔を顰めてますよね、ひょっとして僕のせいですか?」
「いや…これも癖、だな。俺もつい眉間に皺がよっちまう」

ぐにー、っと彼は自分で眉間の皺を伸ばしてみせ、僕はついつい笑ってしまう。

知っている。時間はもうそんなにない。それを打ち破る力は、僕にはない。

だからせめて、あと少しでも。




彼と笑い合える日々を、大切にしようと思った。
















ここのところ、僕の様子がおかしいということを、彼は気付いている。自分を偽ることは慣れて来たはずだったのに、どうして彼には隠せないのだろう。
隠したく無い、と言う気持ちと、言えばきっと彼を傷つけてしまう、という気持ちが僕の中に渦巻き、彼に伝えることが出来ない。

「どうされました、古泉様」

にこりと、僕の監視役である森さんが笑う。口元だけが笑みの形をつくり、目は笑っているようで笑っていない。じっと僕をみている。

「いえ、なんでもありませんよ」
「そうですか、わたしはてっきりあなたがご執心の彼のことで悩んでいらっしゃるのだと思いましたが」

しれっとして彼女はいう。やはり、調べられていたか。

「なんの話でしょうね」
「戯れも大概になさった方が良いと思われますよ。あなたはあなたの道があり、それを外れることは許されないのですから」

どぼけてみせても無駄なことは知っている。けれど、認めてしまえば彼に何が起こるかわからない。

「学生のうちは、ご自由になさいとのことですよ。わたしが言うべきことはそれだけです」

返事も返さず、僕は車を降りた。ああ、彼に会いたい。人並みに笑うことを知った僕は、弱くなったのかも知れない。けれど、それでも良いと思う。いっそのこと彼のこと以外考えられなければ良いと思うことさえある。

そう言ったら、きっと彼は盛大に顔をしかめるのだろうが。

想像して、笑いたくなった。思い出すだけで、彼はこんなにも僕を暖かくしてくれる。

「ああそれと、忠告を、ひとつ」

まだ帰っていなかったのか、そう思いながら振り向くと、彼女は笑っていた。心から。

「『気をつけて下さいね、何があるかわかりませんから。』…あなたの大事な彼に、お伝え下さい」
「っ…!」

息が止まった。これほどまでに、僕は縛られている。彼に?家に?わからない。どちらにも、だ。
ゆっくりと走り去る車を見送った後、震える手で彼に電話をかけた。あいたい、いますぐ。時間が遅いのは、わかっていた。それでも。

『…もしもし?どうした、古泉?』
「…少し、声が聞きたかったんです」

今日は会えませんでしたから。そう告げる声は自分でも滑稽なくらい震えていた。

『…お前、今どこだ?』
「家、ですけど…」
『今すぐ……公園に来い。いいな!』
「え、あの…っ」

ブツ、という音を立てて電話が切れた。……公園。彼の家からも、僕の家からも、そう遠く無い場所だ。
今会ってしまったら、僕は彼に縋ってしまう。それでも、会いたい。急かされるように僕は走り出した。
公園には、彼が来ていた。上下する肩。走って、来てくれたのだろうか。

「…ばか、なんて、顔…してるんだよ…」

あんなにも会いたかったのに、触れるのが怖い。立ち尽くしたままの僕に彼が近づき、触れる。

「俺は、ここにいるから」

ぎゅう、っと、首に回された腕の締め付ける痛みさえ愛しかった。このまま世界が終わればいいとさえ、思えた。

「キョン、くん…」
「…うん」
「キョン、くん、キョンくん…!」
「ここに、いるから。一樹」

ぎゅう、と僕が抱き締め返せば、少しだけ彼が苦しそうに呻いた。けれど力の加減なんて出来そうになかった。ぼろぼろと溢れていく水が、彼の肩に沁みを作っていく。
剥がれ落ちていく。何もかも。
ああ、これで最後なんだ。不思議とそう思った。最後なのではなく、最後にしなくてはならない。それが僕に出来る、彼のために出来る最後のこと。
顔を近づけ、唇を合わせる。優しいキスは出来そうに無い。求めるままに、貪る。
言葉にせずとも、唇から想いが伝われば良い。好きだ。好きだ。好きだ。

だから、言葉にする。



「…さようなら」


大好きでした。











そして僕は、彼の前から姿を消した。














その次の日から僕は学校を止めた。別の場所に転校をすることもせず、家に戻った。あとは家を継ぐ為の教育をされる毎日だ。
またあの暗いだけの毎日に戻る。そう思っていたけれど、彼と過ごした想い出が、いつだって僕を暖かくさせてくれた。
家族は強引に見合い話まで持ち出したが、僕はそれだけは拒否し続けた。それがせめてもの彼への贖罪だと思ったからだ。形だけの結婚も、嫌だった。
あれからまた一年が過ぎ、彼と出会ったあの日から、四年。僕はまたあの街を訪れていた。仕事ついでの息抜きだ。今はもう社長同然で、いつまでも跡継ぎを作ろうとしない僕に家族はそろそろ焦れて来ていた。
家、家、家。それだけしか考えないような人間を、果たして本当に家族と呼べるのだろうか。

「…ふぅ…」

ふらりと歩いていて、気がついた。この道は、彼と学校から歩いた道だ。SOS団のメンバーと一緒に。
皆に見えないようにこっそり、手をつないで帰ったこともあった。あの時は彼に後で凄く怒られた。

「ふふっ…」

自然と笑みが漏れる。そのまま想い出をたどるように僕は街を歩き出した。二人で歩いた道、皆で行った場所。ちらほらと通り過ぎる制服が、懐かしい。
そして僕はいつしかあの映画館へと来ていた。「また、一緒に来ましょう」。そう言った約束も、結局嘘になってしまった。
二人の名を刻んだ柱は、まだそのままあるのだろうか。僕は何気なくそれを見た。
僕らの名が刻まれた柱は、まだ残っていた。小さく刻まれた傷は、少しだけ風化して、けれど確かにそこにあった。

「―――――…」

僕はそれを立ち尽くしたまま見つめた。それをそっと指で撫でると、愛しさが溢れた。
鮮やかに甦る彼の泣き顔、笑い顔、拗ねた顔、怒った顔。そして、僕をみて幸せそうに笑う、その顔。

「っ――――…キョン、くん」

僕は、バカだ。今更気がついた。
こんなにも彼を愛していたのに、どうして手放すことでしか彼を守れなかったんだろう。
後悔と懺悔の入り交じる気持ちで、僕はもう一度その傷を撫でた。結婚をしない理由も、彼への贖罪なんて嘘だ。僕がまだ、彼を愛しているからだ。
ふと、指先に違和感を覚えた。真新しい傷が、その印の下に付けられていた。

『あの海で、待ってる』

「…!」

彼の字だった。いつこの字は書かれたのだろう。傷自体は真新しいけれど、最近書かれたものとは限らない。そうして今、彼が待っているとも。
けれど僕は走り出す足を止めることが出来なかった。此処から海までどれくらいの距離があるのかなんて知らない。遠くは無いが、近くもないはずだ。それでも走った。電車や車で行くなんて、気持ちが耐えられそうになかった。

「っ…はぁ、はぁっ…は、ぁ…っ」

海までついた頃には足はもう動かないかと思うくらい疲れていたし、息は上がりきって呼吸する方が苦しいくらいだった。それでも僕は、必死で彼を捜した。
いた。少しだけ変わっているけれど、確かに、彼だ。

「キョン、くん!」

僕は精一杯彼の名を叫んだ。彼がゆっくりと、振り向く。

「おせーよ、馬鹿」

泣き出しそうな笑顔で、彼が言った。慌てて走り、近づく僕を、彼が殴る。痛い。

「アホ。これでも手加減したんだ」
「キョン、くん、どう、して…」
「色々と、長門に調べてもらったんだよ。それで、お前のこと色々知った。本当はお前の口から聞きたかったけどな」
「すみません…」

謝るな、ばか。彼はそう言って顔をしかめた。その顔も、久しぶりだ。

「お前は本当に馬鹿だ。アホな上に馬鹿でどうしようもない大バカだ」
「す、すみません…」
「謝るところがさらに馬鹿だ。他にいうことあるだろ」

彼はそう言って僕を睨みつけた。そうだ、言わなければ。

「さようならだなんて、嘘です。愛してるんです、あなたを」

一度言えば、止まらなかった。彼を強く抱き締めて、愛していると、何度も言った。

「…それで良いんだよ。そう言ってくれたら、俺は一緒に戦うから。一緒に、お前とずっといるから」

ぎゅ、っと彼も僕を抱き締めかえす。自然と、涙が溢れて止まらなかった。切なくて、苦しくて、けれど暖かくて、幸せになれる気持ち。ああ、これが愛なんだと、彼が教えてくれた。

「俺も、愛してる、一樹」

彼の唇がそっと僕に近づいた。暖かいもので、僕の全てが満たされていく。

「…愛しています」







そして僕は家を捨てた。せめてもの意趣返しにと、社長業を適当に放り出した後に。幸いにも働いていた間に沢山金は溜まっていたし、個人的なコネも出来ていたので、暮らしていくのに困ることはなさそうだった。
彼は大学へと通っていて、そこには涼宮さんたちもいた。久しぶりに会ったら、とても怒られた。変わらない空間を、僕はとても幸せな気持ちで感じることが出来た。今も時々会っている。
彼の学校の近くに借りた部屋は今までの家に比べれば小さなものだけれど、あの家とは比べられないくらい僕の大切な場所になった。いつだってそこには彼がいて、僕に微笑みかけてくれる。

「あ、キョンくん。今度の日曜日って、実家の方とか皆さん大丈夫ですか?」
「あ? なんでまたそんな話するんだ?」

怪訝そうな顔でレポートから顔を上げた彼は僕を見る。どれだけ時間が経っても彼のしかめっ面はデフォルトのままだ。

「そう言うこというとお前のその笑顔もデフォルトのまんまだろうが」
「僕は幸せだからですよ。ああ、でもちゃんとあなたのそのしかめっ面も照れから来てることは知っていますから」
「あほ!」

図星なのは彼の顔が赤いことを見ればまるわかりだ。言うと怒られるので言わないが。

「って、話がずれてるだろうが。それで?」
「ああ、改めてあなたの家族にご挨拶に伺いたいな、と思いまして」
「っ…!? げ、ほっ、う、ぐ…っ」
「だ、大丈夫ですか?」

口に含んでいたカフェオレを彼が危うく吹き出しかけて咳き込む。そんなにおかしいことを言っただろうか。

「お前なぁ……」
「駄目ですか?僕の方はともかく、あなたまで親不孝にさせたくありませんし」
「相手が男って言う時点で結構親不孝だと思うんだがな。…まあ、そんなうちの親は気にしない気がするが」

まあ、良いんじゃないか? そう言って彼は再びレポートに戻る。

「…耳、真っ赤ですよ」
「…、」
「本当は、嬉しいと思ってくれてるんですよね?」
「〜〜〜〜〜〜〜っ」
「ね?」
「うるさい悪いかっ!」
「いいえ。僕も嬉しいですから」

にっこりと笑うと、彼が溜息をついた。けれど顔は笑っている。

「愛してます。ずっと、あなただけを」
「…俺もだ」

自然と二人の距離が縮まり、唇が重なる。









これから彼と過ごす時間が、僕の永遠のノスタルジアになっていく。













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